『春になったら』に『不適切にもほどがある!』も “余命もの”作品はいつから増えた?

「登場人物が余命宣告を受ける」というストーリーを作品の根幹として描く映画・ドラマは、ざっくりと“余命もの”とジャンル付けすることができるだろう。しかしいざジャンル付けをしたところで、作品単体での好みはあるとはいえ、「俺、ヒロインが難病で死ぬ映画が好きなんだよね」という少々悪趣味な感じのジャンルファンはあまり見たことがない。

さらにこの“余命もの”も、大きく2つのパターンに分解することができる。ひとつは先述の例のように、余命宣告を受けたことで“死”をもって引き裂かれることが確定した恋人たちを悲しい物語として描く“純愛もの”と呼ばれるもので(こちらはすでにジャンル化しているといっても差し支えないだろう)、この場合は往々にして若者で、かつ難病に侵されるのは儚げなヒロインだとなぜか相場が決まっている。

もう一方は、余命宣告を受けた者を主人公にして、残された時間でやり残したことを回収していくうちに人生を見つめ直す、いわば“人生讃歌”のようなスタイルの作品。“純愛もの”が死の悲しみを猛アピールするのに対し、こちらでは割と中高年が主人公となるケースが多く、おだやかで晴れやかな感動へと落とし込まれやすい。現在放送されている、余命3カ月を宣告された父と娘の関係を描くテレビドラマ『春になったら』(カンテレ・フジテレビ系)はこちらのパターンに当てはめることができるだろう。

この前提を頭に入れたうえで、ここからはこの“余命もの”の代表的な作品を例示しながら、その歴史と背景ーーすなわち、なぜこのジャンルは一定の割合で頻発し作りつづけられるのだろうか、ということを考えていきたいと思う。

現在まで続く“余命純愛もの”のはしりと言われているのは吉永小百合が軟骨肉腫に侵されるヒロインを演じた斎藤武市監督の『愛と死をみつめて』であろう。当時どのような意図でこの物語が作られ、かつなぜ流行したのかわかりかねる部分は多いが、ひとつ考えられることは戦後から20年近くが経過し、“死”というものが隣り合わせではなくなった若者たちにとって、抗うことのできない別れが訪れる難病という題材がセンセーショナルに刺さったのであろう。

ちなみに数年後にはアメリカでも類似した“純愛もの”が流行する。アーサー・ヒラー監督の『ある愛の詩』である。その公開時はベトナム戦争の真っ只中であったが、劇中に戦争の影はない。あくまでも白血病という難病を代用し、恋人たちの悲しい別れを描写する。この両者の類似性と相違性は興味深いものがある。

その後21世紀に入ってからはさらなる大ブームが巻き起こされる。その引き金を引いたのは映画・ドラマ両方で映像化された『世界の中心で、愛を叫ぶ。』であり、一気に“純愛もの”としてのジャンル化が進む。昔からある“ラブストーリー”と何が違うのかはさっぱりわからないが、“余命もの”のなかのパターンのひとつだった“純愛もの”が、“ラブストーリー”のなかの“純愛もの”となり、“余命もの”はその要素のひとつとして見られるようになったのはこの頃だ。結果、この後10年ぐらいは悲しい雰囲気のラブストーリーが作られるたびに、「どっちが死ぬの?」と言われてしまうような空気が醸成されることになる。

取り立ててアップデートされることもないまま“余命純愛もの”は様々作られていくが、その中で登場した『君の膵臓をたべたい』はこのジャンルに大きな転換のきっかけを与える。膵臓の病で余命いくばくもないヒロインと、彼女に淡い恋心を抱く主人公。大人になってからの主人公が亡きヒロインを追想する終盤も含め、『世界の中心で、愛を叫ぶ。』が敷いたレールの上にある物語と見えるが、ヒロインが病気とはまったく関係のないかたちで死んでしまうという盲点を突いてきた点で画期的であった。余命1年と言われれば、1年のんびりと生きられるわけでもない。余命宣告を受けていない者、健康な者であっても、人は明日死んでしまうかもしれない。限られた時間を有意義に過ごすことをテーマに据える点は従来通りである一方、誰にでも平等に死は訪れると示されるのは、大きな震災を経たことで生まれた考え方だったのかもしれない。

●“生きる意味”と“死”に思いをめぐらさざるを得ない状況になった「2020年代」

ここで一旦、冒頭の前提に戻り、もうひとつの“人生讃歌”パターンのほうを辿っていきたい。こちらは最近イギリスでリメイク版も製作された、黒澤明監督の『生きる』が先駆的な存在だろうか。こちらでも戦後社会における“生きる意味”と“死”についての思案が展開するのだが、戦中を生き抜いてきた世代が主人公ということで前時代を省みるようなニュアンスが強くある。いずれにしても、死と隣り合わせでなくなった世界でも不治の病には抗えないという点は“純愛もの”と“人生讃歌”が同一のジャンルのなかに存在していることを証明している。

こちらの潮流に沿った作品は日本でもいくつか作られてきたが、どちらかといえば海外で目立つ。これはお国柄というやつだろうか。象徴的な作品としては、青年2人が「海を見たい」と考え最期の旅へと出発するドイツの『ノッキン・オン・ヘブンズ・ドア』や、20代の女性がやり残したことを実行する『死ぬまでにしたい10のこと』、病に屈することなく人生を充実させようとする『50/50 フィフティ・フィフティ』。そして忘れてはいけないのは、ジャック・ニコルソンとモーガン・フリーマンが共演し、数年前に日本でもリメイクされた『最高の人生の見つけ方』である。

そもそも“純愛”にしても“人生讃歌”にしても、往々にして主人公なりその身近な人物が死に至る結末が待ち受けるということが目に見えている。そうなるとどうしたってストーリーの大枠は同じであるし、昨今のネタバレを忌避する傾向と逆行せざるをえない。それでも作り続けられるのは、結局のところ“死”というものが誰にとっても避けられないものであり、健康に生きていればほとんどの場合それを見落としてしまいがちだということ。また、どんな時代どんな文化圏、どんな人であれ積極的に生きる権利があるということも見落とされがちであるということがあるのだろう。確かにパターンが決まった作品は作りやすいし、泣かせる映画にすれば興行的な成功もしやすいというのも一理あるだろうが、当然そこには先ほど戦後や震災というキーワードを挙げたように、その時代に即した描き方が求められていくわけだ。

2020年代に入ってからは新型コロナウイルスのパンデミックがあり、ウクライナやパレスチナでの戦争があり、社会情勢も経済情勢も極めて不安定で、“生きる意味”と“死”について誰もが思いをめぐらさざるを得ないシチュエーションに包まれている。かつSNSなどの発展によって希薄なくせに断絶が難しいこんがらがった人間関係が普通になったせいで、別れというものが“死”をもってしか訪れなくなっている。こうしたことが、“余命もの”に限らずあらゆる作品づくりの背景に影響を与えている世の中である。

だからこそ先述のように『生きる』のリメイクが作られて『春になったら』のようなドラマが作られ、それこそ『不適切にもほどがある!』(TBS系)も、主人公が震災で亡くなる未来を知った今、“余命9年”をどう生きるかという物語になりつつある。そして現代の『愛と死をみつめて』ともいうべき『余命10年』が登場しヒットを記録し、“純愛もの”であっても余命宣告を受けるのはヒロインだけではないという当たり前のことに立ち返るような『余命一年と宣告された僕が、余命半年の君と出会った話』(Netflix)が控えていたり。“余命もの”の必需性は、これまでで最も高まっているのかもしれない。
(文=久保田和馬)

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