「絶望は死に至る病」...キルケゴールが行った人間の苦悩と有限性の分析

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キルケゴールは当時多くの思想家とは反対に、人間の「実存」を重視する考え方を展開しました。著書『死にいたる病』のなかで、病そのものだとされている「絶望」とは、いったい何のことなのでしょうか。キルケゴールの思想について、著書『超要約 哲学書100冊から世界が見える!』(三笠書房)より、白取春彦氏が解説します。

キルケゴールにとっての「絶望」と根本にある「人間の有限性」

キルケゴールは、人間は根本的な病にかかっており、その病とは「絶望」である、といいます。しかも、絶望は死に至る病だというのです。もちろん、この表現は暗喩です。

具体的にこの絶望とは、聖書に書かれた「永遠の生命」への約束を信じることができないこと、信仰がない状態を指しています。つまり、キルケゴールはキリスト教信仰(の救い)を前提にして書いています。

しかし『死にいたる病』がたんに信仰者だけの問題にはとどまらない哲学的な広がりを持つ書物になっているのは、いったい人間はどういう存在なのかという「実存」の問題を初めて打ち出しているからなのです。

人は誰もが同じように生きているわけではありまん。たとえば、感性と肉体のみで自由奔放に生きている人がいます。現実を見失いがちなこの人たちの裏には深い不安と絶望があり、その生き方が乱れ始めると絶望がもろに顔を出してきます。なぜなら、自分が本当は絶望していることを知らないでいるという絶望がずっと底にあったからです。

また、世間と一体となり、世間に埋没して生きている人がいます。何事も世間並みにしていれば不幸に襲われないだろうと考えているのです。そういう人は周囲の社会を一種の神とみなしているのです。しかし、世間は神ではありません。

また、愛や社会的地位といったものにあこがれているものの得られず、しかしそれらにいつまでも執着する自分というものに絶望している人もいます。彼らは孤独であり、社会に向かわずに自分に閉じこもってしまいがちです。

また、自分の苦悩を誇りとする人もいます。彼らはそのためにかえって悪魔的な反抗の態度を示します。

彼らがそれぞれの生き方において絶望している原因は、人間の有限性にあるとキルケゴールは指摘します。人間は時間の中に生きているため、肉体も幸福も有限でうつろいやすく、何一つ永続しないからです。絶望の根底にあるのはそこであり、つまるところどんな人間も死と永遠の問題にかかわっているからなのです。

しかし人間が、無限性と有限性、偶然性と必然性、肉体と精神という矛盾して相反するものにまたがった存在であるのは神の定めなのです。そのような人間存在はあたかも罰を受けたように見えますが、神は人間が自己の内なる永遠性に目覚めるきっかけを与えてくれています。それが、信仰なのです。

信仰することによって、人間は世のうつろいやすいものに自分の生の根拠を置くのではなく、永遠なる神に自分の根拠を置くことができるからです。信仰のその態度にこそ、多彩な絶望の苦悩から解放され、永遠性を獲得する可能性が生まれてくるのです。それは、冒険なのです。

「理性」よりも人間の「実存」を追求したキルケゴールの思想

キルケゴールが「実存」という考え方を打ち出したのは、当時の思想の主流であったヘーゲルの考え方に強い異議をとなえるためでした。つまり、ヘーゲルやフォイエルバッハたちは何事も「理性」(という観念)の発展で説明し、社会全体こそ理性の表れなのだとして、個人のそれぞれの存在を社会の発展の一過程にあるものにすぎないととらえるか、ほとんど無視していたからです。

もちろん、人間を階級で規定してしまうマルクスの思想にもその傾向があります。それから、マルクスは自己疎外について問題にして商品の生産と結びつけましたが、同時代のキルケゴールはまったく別の内的次元で自己疎外を絶望という言葉で表現しています。

理性や理念ではなく人間そのものを考察するキルケゴールのこういう考え方はそののちに出てくるサルトルやマルセルに強い影響をおよぼしています。

また、キルケゴールによる人間の苦悩の分析は、現代においてもまだ通じるところがあります。というのも、現代人に特有の「自分探し」こそ、絶望の淵におちいらないためのあがきの一種だともいえるからです。終点にたどりつかない「自分探し」をさせているのは、絶望への坂道にある不安や不全感だからです。

賢人のつぶやき 人生は後ろ向きにしか理解できないが、前を向いてしか生きられない

白取 春彦

作家/翻訳家

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