山上路夫の60年に及ぶ偉業の集大成が発売 佐良直美、由紀さおり、森山良子、トワ・エ・モワ、野口五郎ら賛辞が到着

赤い鳥「翼をください」、ガロ「学生街の喫茶店」、小柳ルミ子「瀬戸の花嫁」、アグネス・チャン「ひなげしの花」、梓みちよ「二人でお酒を」等一時代を築き、人の記憶に残る名曲の数々を手掛けた山上路夫。作詞家活動60年の間に発表された作品集『山上路夫 ソングブック-翼をください-』が3月13日(水)に発売されています。

全120曲を収録した本作には山上路夫自身が語る作品への思いや、監修・濱田髙志による楽曲解説を掲載した170ページに及ぶ豪華ブックレットも封入され、山上路夫の集大成と呼ぶにふさわしい内容となっています。

そして本作に収録され山上を敬愛するアーティストたち、「世界は二人のために」の佐良直美、「夜明けのスキャット」の由紀さおり、「禁じられた恋」の森山良子、「或る日突然」のトワ・エ・モワ、「私鉄沿線」の野口五郎、「大阪ラプソディー」の海原千里(現・上沼恵美子)。そして山上と共に多くの作品を生み出した長年の盟友・村井邦彦、一番影響受けた作詞家として崇める小西康陽から惜しみない賛辞が届いています。

[コメント]
「世界は二人のために」のメロディーは、明治製菓のCMソングで、そこに詞を作られたのが、山上先生でした。誰でも一度聴いたらスーッと覚えられるシンプルな歌ですが、歌手にとっては「愛・花・恋・夢」の順番を覚えるのが大変でした。初めの頃は「なんて簡単な歌」でしたが、歌い込んでいくうちに、「simple is the most difficult」という事も解りました。
初めて山上先生にお会いしたのがいつかははっきりと覚えていないのですが、唯一つ、明治時代の文学青年のような方だなと思ったのは、今でも覚えています。そして、いずみたく先生を魚のクエに例えるなら、山上先生は陽の光の中でキラッと光る蜻鈴のような繊細さとしなやかさを持った方で、その作品にもそれがよく表れていると思います。どうぞこれからもお元気で、素敵な詞を書き続けて下さる事を楽しみにしております。
――佐良直美

山上路夫先生は、まさに私由紀さおりを今生に誕生させてくださった大切な恩人です。
TBSラジオの深夜放送「夜のバラード」のテーマ曲として、ルルルで始まるあの歌詞のない、曲です。
当時はボーカリーズと呼んでいました。
1コーラスをいずみたく先生から「好きな言葉で歌ってみてほしい」とのひと言で歌ったのが始まりでした。
オンエアが始まると、ラジオ局に若者たちからの問い合わせが殺到し、いずみ先生がシングルで出そうとおっしゃって、頭の部分しかなかったその曲に、山上先生に哲学的な、抽象的な言葉の世界を…と発注。
山上先生は当時からとても難しかったとおっしゃっていました。
今55年を迎えた私の傍らになくてはならない大切な一曲となりました。
あの日の音色を何とか守りながら歌い続けてきました。
その後、ポートランドの人気ジャズオーケストラ、ピンクマルティーニのリーダー、トーマス・ローダーデール氏に見いだされ、私に海外で歌うチャンスが舞い込みました。
ロンドンのロイヤルアルバートホールからアメリカのハリウッドボウルまで、今では世界のどこかでこの曲が流れているはずです。
「生きがい」やフランス・レイさんのオリジナル曲「恋に落ちないように」も、今でも歌っています。
もう少し歌い続けていきたいと思う日々です。
――由紀さおり

デビューの時から沢山の歌詞を書いていただきました。
山上さんの書いて下さった詩から山上路夫さんご自身の在り方を感じます。
初めてお会いした時からナイーブな温かさ、品格、優しさなど沢山のステキを兼ね備えた方、と思っています。
歌は人なりと思いますが、詞もまた人となり、山上路夫さんの歌詞はいつ歌っても、前向きな温かい優しさ、ロマンティックが満載で、押し付けることのない言葉は、聴く人、歌う者にそこはかとない柔らかさを運んでくれます。
――森山良子

山上さんとはトワ・エ・モワのデビュー曲「或る日突然」以来のおつきあいとなります。
当時、山上さんと作曲家の村井邦彦さんは、私達にとってお兄さんのようにやさしく、楽しく、音楽へと導いて下さいました。
あれから50数年が経ち、音楽シーンも大きく変貌を遂げ、今やシンガーソングライターの楽曲が大半を占めている時代となりました。
そんな中でも長く歌い継がれているのが、山上さんの詞だと思います。
「或る日突然」「地球は回るよ」「友だちならば」など、激動の70年代にあっても拳を振り上げ歌う歌ではなく、愛と平和と希望を若者たちの胸に呼び覚ますような、そんな歌詞を作り続けています。
いつまでも色褪せない山上さんの詞の感性に心から感動しています。
――トワ・エ・モワ

初めはぼんやりだったので、もっとカチッとしたタイトルを、という事で山上先生が「私鉄沿線」と名付けられたんです。正直、ふつうは“私鉄の沿線”なのに、“の”がないよ~、と18歳の僕は思っていたんです。ある時、何気なく聞いていたNHKのニュース番組でアナウンサーの方から「私鉄沿線」という言葉が耳に入ってきました。山上先生の生んだ「私鉄沿線」、は四字熟語として認知されたのだと思えた嬉しい瞬間でした。
「甘い生活」「私鉄沿線」「哀しみの終るとき」は、別れから始まり、また愛を取り戻そうという一連のストーリーになっていて山上先生が描いた愛の物語です。
その後、2020年、筒美京平先生が亡くなられた時、突然、お便りを頂いたのです。とても達筆で独特の字で綴られた先生のお手紙に、僕は心から感激しました。
京平先生から頂いたお手紙とともに、僕の宝物です。
――野口五郎

作品集のご発売、おめでとうございます。
「大阪ラプソディー」で歌手にしていただきました。歌手になりたかったのでとても大きな作品でした。
時代を越えてママさんコーラスや盆踊りなど幅広い歌になって息が長くありがたいです。
若い方が上沼恵美子が歌っていたのだとびっくりされます。
すごい歌で私にとって人生の宝物になりました。
有難うございます。
――上沼恵美子

山上路夫さん(ガミさん)は歌を書くためにこの世に生まれてきた天性の詩人だ。
ガミさんの父親は大ヒット曲「港の見える丘」(1947年)を作詞・作曲した東辰三。
当時としてはモダンなハーモニーを駆使した作曲家だ。ガミさんは小さい頃から父が作曲や編曲をするのを見ながら育った。だから作曲家が書いた曲の意図をすぐに汲み取る事ができる。
僕はガミさんと仕事をしていていつもそう感じていた。きっとガミさんと仕事をした全ての作曲家も同じことを感じたと思う。
ガミさんは日常の生活を大事に生きている。そして日常から生まれる数々の事柄をさりげなく詞で表現する。
そのさりげなさ、素直さ、優しさが多くの人々の心に届き数々のヒット曲が生まれた。僕はガミさんと知り合い、長年にわたって一緒に仕事ができて幸せだった。
お互いに命が続く限り一緒に歌を書き続けたいと思っている。
――村井邦彦

小学生の時、いとこの家で聴いたザ・タイガースの『ヒューマン・ルネッサンス』というアルバム。いま振り返ると、あのレコードを聴いたことでその後の自分が作られたのだ、としか思えないのです。とくに「生命のカンタータ」と「緑の丘」そして「廃墟の鳩」という3曲は、やがて自分でも歌を作るようになったときに、ことばとメロディを組み合わせるお手本として、すっかり刷り込まれていたように思います。人生でいちばん影響を受けたのは、じつは山上路夫さんと村井邦彦さんだったのか、と、この年齢になって気づくなんて。やさしくて、うつくしい「うた」の数々の、その「ことば」のほうを担った山上路夫さんは、ぼくの永遠の憧れです。ずっと、ずっと、ずっと尊敬しております。
――小西康陽

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