ナイツ塙宣之がマセキ芸能社に入った理由「ある日突然、“入部させてください!”って」大学の落研での運命の出会い

塙宣之 撮影/冨田望

お笑いコンビ・ナイツの鉄板ネタといったら”ヤホー漫才”であることには異存がないだろう。「ネットのヤホーで調べたんですけど……」と塙宣之さんがボケると、相方の土屋伸之さんが透かさずツッコミを入れるという、いわゆる”しゃべくり漫才”だ。2000年にコンビを結成してから早二十年が経ち、昨年6月には漫才協会会長に就任した塙さんの人生における”CHANGE”にまつわる出来事とは──?【第2回/全4回】

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兄に続き弟も芸人を目指したい──「僕はどちらかというと大人しいタイプで学校に成績も結構良かったから、親からしたら“なんでお前も!?”って感じで相当悩んじゃったんです」。

とりあえず、その場は親の言うことを受け入れて、大学進学の道を進んだ。

「僕ね、上京したての20代の頃って意味もなく渋谷に行っていたんですよ。そうしないと流行から離れちゃう気がして。でも、それって意味が無いってことが判ってきたんですね。そして40過ぎたら、今度はネットニュースばかり見るようになったけど、ロクなことが書いてないから見てもしょうがないと思えてきて。もっと違うモノで感性を磨いた方が良いんじゃないかって思うようになってきているんです。だから、今ではもうスマホも捨てちゃおうかなって。極端ですけど」。

話がちょっとそれてきたので、学生時代の話に戻すことにしよう。コンビ解散後、内心も芸人への道を諦め切れなかった塙さんは、そこで『落語研究会』に入会した。

「僕が入学する何か月か前に福岡のライブで、ある大学の『落研』が大学対抗の『冗談リーグ』というお笑い大会で日本一になったという記事見かけて、“この大学に行ったら、お笑い出来るんだ”って思って、その大学(創価大学)への入学を決めたんです」。

そして入学直ぐに、『落研』に入部。そこで、新たな出会いがあった。

落研ライブの常連客が相方に!

「挨拶に行ったら、そこに『エレキコミック』のやついいちろうさんがいたんです。当時、やついさんは4年生で、“聞いてるよ、九州で優勝したんでしょ”みたいな感じで、話しかけてくれて、直ぐにすごく仲良くなったんです。それで、やついさんが住んでいたボロアパートに僕も引っ越して、2年生の時から一緒に過ごすようになったんです」

その後、現在の相方である土屋伸之さんと出会うことになった。

「僕が3年生の時なんですけど、土屋はずっと客として『落研ライブ』を観に来ていたんです。当時、彼は公認会計士を目指していたんですよ。でも、公認会計士の勉強が大変でついていくことが出来なくて……、そんな彼の気分転換というか、癒しを求めて観に来てくれていたらしいんです。で、僕が“いつも観に来てくれているよね”って話しかけたのがきっかけで仲良くなったんです。そうしたら、ある日突然、“入部させてください!”って言ってきて。正直、僕も驚きました」

土屋さんは当時大学2年生だった。

「途中から入ってきたわりには、正直言って、まぁ下手でしたよね。でも色々器用にこなすので、すごく伸びしろがあるなっていう風に感じましたね」

この土屋さんとの出会いが塙さんの人生を大きく変えることになった。まさに”運命の出会い”とも言えたのであった。

「土屋の母親が昔、マセキ芸能社という芸能事務所で津島明希という名前で演歌歌手をやっていたんですね」

津島明希は1968年に『浪花節だよこの俺は』でデビューし、その後は津島波子名義で『女ひとりのブルース』などをリリースしたが、土屋さんが生まれる前に引退していた。

「そんなこともあって、大学卒業した時に彼のお母さんにマセキの社長に口を聞いてもらったんです。“うちの息子が芸人目指しているんです。でも、大学に入ってからのことなので、吉本さんの養成所とかに入る年齢じゃないし、マセキさんで面倒見てもらえませんか”って言ってくれて」

それが塙さんの人生にとって、更に大きな転機を迎えることに繋がった。

■塙宣之(はなわ・のぶゆき)
1978年3月27日、千葉県生まれ。A型。T173㎝。2000年に大学の後輩・土屋伸之と漫才
コンビ「ナイツ」を結成。2003 年、漫才協団(現・漫才協会)・漫才新人大賞受賞。2008
年、お笑いホープ大賞THE FINAL優勝、NHK新人演芸大賞受賞。2008~10年、3年連
続で「M-1グランプリ」に3 年連続で決勝進出。2022 年度、第39 回浅草芸能大賞 大
賞受賞。2019 年に出した著書『言い訳 関東芸人はなぜM-1 で勝てないのか』が発行部
数10万部を突破した。近著『劇場舎人 ずっと売れたい漫才師』(KADOKAWA)が発売中。

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