「石さんの練習がキツすぎて、泣きそうだった」「めちゃくちゃしんどかった」プロ初のキャンプで中村憲剛のメンタルがそれでも崩壊しなかった理由

フットボーラー=仕事という観点から、選手の本音を聞き出す企画だ。子どもたちの憧れであるプロフットボーラーは、実は不安定で過酷な職業でもあり、そうした側面から見えてくる現実も伝えたい。今回は【職業:プロフットボーラー】中村憲剛編のパート2だ(パート6まで続く)。

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プロ1年目、プレシーズンから理想と現実のギャップに苦しんだ憲剛さんは、自身初のキャンプで練習初日と同じく地獄を見ることになる。

「石さんの練習がキツすぎて、泣きそうだったんですよ、本当に」

石さんとは、石﨑信弘監督のことである。同監督の、フィジカルとテクニックの基礎的なメニューを織り交ぜた「フィジテク」をこなすのは文字通り「キツかった」。

「(キャンプの)初日、2日目が終わって(3日前の朝に)起きれないんです。筋肉痛で。準備をしてキャンプに臨んでいる先輩たちもみんなヒイヒイ言っていて、その中で大卒の僕は走れて当然と思われるわけです。そのプレッシャーとも戦っていたから、めちゃくちゃしんどかった」

そんな環境でなぜメンタルが崩壊しなかったのか。

「僕はいわば最下層からプロになっているので、こうなるのは想定内というか、しょうがない、受け入れるしかないわけです」

1年目から上手くいかない。そこを想定内とする思考回路。これがいずれ、中村憲剛を名プレーヤーへと押し上げる原動力のひとつになる。

「ここから自分がどう積み上げていくか。そういうシチュエーションは初めてではなくて、中学での挫折を経て、高校や大学でも直面しました。“カテゴリーギャップ”みたいものを乗り越えて、中央大学に入り、フロンターレに加入している。なので、切り替えは早かったです」

要するに、憲剛さんは非エリートだった。学生時代には自分よりも上手い選手がゴロゴロいて、彼らの経歴は輝いていた。そうした“カテゴリーキャップ”を味わいながらも挫けず、プロになるための道筋を立てていた。そんな非エリートの強みがプロ1年目から活きたのだろう。

憲剛さんのような思考回路を誰もが備えているわけではない。実際、ユース時代に「王様」と持て囃された選手がプロになった途端、壁にぶつかりそのまま消えていくケースはかなりある。

「ユースでエースと呼ばれるような子たちは、基本的にはそこまで大きな挫折を経験していないように見受けます。なので、壁にぶち当たった時にそうした状況を受け入れられないし、慣れていないし、よじ登る方法を当然知らないわけです」

憲剛さんは「たかが…」と続ける。

「高校で2、3年、大学では3、4年。その程度の幅で『超○○級』と言われてもプロから言えば、『たかが』なんです。もちろん、そこで素晴らしい活躍を見せているからこそ、プロになれるので難しいところですが…。だから、言っているんですよ、フロンターレの育成年代の子どもたちに。挫折は早く経験しろと。難しいんですけどね、Jの下部組織の子たちなので。でも、上手くいかない原因を探っていくうちに思考力が鍛えられ、結果的に壁をよじ登る力が身に付くんですから」

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そうした思考力がないと「プロになってパニックになる」と憲剛さんは明言する。確かに同世代がライバルだった学生時代と違い、プロはいわば“ボーダーレスの世界”だ。

「学生まで2、3歳だった年齢差が、プロになると一気に広がります。百戦錬磨の先輩たち、それこそ俺みたいな40歳の選手のようなベテランともポジション争いをしないといけない状況下で、プロ1年目からルーキーたちに突きつけられるのが、『中・高・大学の10年間で何を身に付けたか』なんです。自分の武器、引き出しはどれくらいあるのって。僕の場合、早い段階で挫折していたのでよじ登る力自体はあった。どん底を受け入れざるを得ない状況からどう這い上がっていくかは経験済みで、だから思考の切り替えは早かったわけです」

憲剛さんは基本的に頭の良い人なのだろう。自身のことを客観的に観察できて、頭で考えたことを言語化できる。どうやったら中村憲剛のようなプロフットボーラーになれるのかなと考えていると、憲剛さんは少し強めの口調でこう言った。

「それはもうね、慣れです。基本的に全部慣れなんですよ」

有無を言わせぬ説得力がある。

「試行錯誤しながら自分が組織の中で生き残る術を高校、大学で学んできました。だから、シーズン開幕前のトレーニングマッチでAチーム(スタメンクラス)やBチーム(主にベンチメンバー)に入れなくても想定内というスタンスでいれました。キャンプが終わって全然上手くいってないんだから、Cチーム扱いでも仕方ないですよね。その現状に落胆するんじゃなくて、監督やチームメイトにどうやったら中村憲剛を知ってもらえるか、自分はお得な選手だよと分かってもらえるか。色々と思考しながら爪痕を残す作業を毎日ずっとやっていました」

当時22歳で、その思考力。これこそ憲剛さん特有の武器である。

「僕は小さい頃から身長が低くて、細くて、足も遅いから。じゃあ、どうすれば通用するのかって考えざるを得なかっただけです。それはそれで幸運でしたけど」

当然、思考力があるからといって全てが上手くいくわけではない。シーズンの流れもまるで分からないプロ1年目はリーグ戦が開幕してからも憲剛さんは相応に苦労した。

「日々のコンディション作り、レギュラー争いとか、何も分からない中で這いつくばりながら食らいついていった感じです」

そうやってコツコツと練習した結果、憲剛さんはプロ1年目のJ2リーグで全試合メンバー入り。34試合出場、4ゴールと確かな爪痕を残した。

「石さんに気に入ってもらい、使ってもらえて。(カップ戦を含む)全試合に絡めたんです。ルーキーイヤーで1年の流れを掴めたのはめちゃくちゃ大きかった。楽しむ余裕はなかったし、正直、必死。当時は3-4-2-1システムで(前線には)ガナ(我那覇和樹)とジュニーニョがいて、僕はトップ下の今野(章)さんのスペアだったんです。彼らをどう超えていくか。牙城を崩すのは大変で、余裕なんてなかったですよね」

社会人1年目も、余裕なんてない。雑務などに忙殺され、プライベートの時間も満足に確保できない。ただ、そんな中でも知識を蓄え、どう自分を成長させるかを考えられれば道は開ける。憲剛さんの言葉には、そんなメッセージが込められている気がした。

さて、ルーキーイヤーである程度手応えを掴んだ憲剛さんだが、プロ2年目になると「俺、潰されるわ」という出来事があった。しかし、それは“天職”と出合う予兆でもあった。

<パート3に続く>

取材・文●白鳥和洋(サッカーダイジェストTV編集長)

<プロフィール>
中村憲剛(なかむら・けんご)
1980年10月31日生まれ、東京都出身。川崎フロンターレ一筋を貫いたワンクラブマンで、2020年限りで現役を引退。川崎でリレーションズ・オーガナイザー(FRO)、JFAロールモデルコーチなどを務め、コメンテーターとしても活躍中だ。

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