「21歳の女性が生きたまま焼かれた」未解決事件描く『12日の殺人』監督が追求したリアルとは?「男は男だけでいるとき弱さを見せられない」

『12日の殺人』© 2022 - Haut et Court - Versus Production - Auvergne-Rhône-Alpes Cinéma

「フランスのアカデミー賞」総なめ!『12日の殺人』

2024年3月15日(金)より全国公開となる『12日の殺人』は、『悪なき殺人』(2019年)がスマッシュヒットとなったドミニク・モル監督の新作で、実際に起こった未解決のヘイトクライムをもとにしている。悲惨な殺人を解決することができない刑事たちは事件に囚われていくが……という物語で、2023年に“フランスのアカデミー賞”と言われるセザール賞を総なめにした。

フランス版『ゾディアック』と言われる本作だが、『ゾディアック』にはない新たな価値観を提示した傑作だ。どのようにしてこの映画が誕生したのか、モル監督に聞いた。

「暴力の95パーセントを男性が起こしている」

―『12日の殺人』は警察を舞台にしたミステリーで未解決事件を扱っているので『ゾディアック』(2006年)や『殺人の追憶』(2003年)なども思い出されますが、それらと大きく違う点が“有害な男らしさ”がテーマになったところですね。

有害な男らしさについての映画を撮りたかったというわけでもないんですよ。じつのところ、現実に起こったこの事件に偶然出会って最初に興味を引かれたのは、原作のノンフィクションにも描かれていたのですが、刑事がある事件に強迫観念を抱いてしまい、事件が解決できないことで強迫観念がますます高まっていくところだったんです。

でも共同脚本家と脚本に取りかかってまもなく、これは女性差別から若い女性が殺されたフェミサイド(女性嫌悪殺人)事件だと気づき、何人もの容疑者が彼女に起こったことについて無関心だったと感じました。そこから、男性の女性に対する暴力と有害な男らしさが重要なパートになっていきました。

―刑事の中にも男らしさの問題が描かれていました。たとえばヨアンと仕事でペアを組んでいるマルソーは、善人なのに『ダーティハリー』みたいに暴力的に解決に向かおうとしてしまいます。マルソーを描いたのは、やはりマチズモでは問題解決はできないということですか。

その通りです。マルソーのキャラクターはかなり複雑で、それというのも彼が私的な人生と職業的人生とを一緒くたに考えてしまっているからなんです。刑事に起こりがちなことなんですが、仕事が大変すぎて家庭がおろそかになるため離婚してしまったりします。マルソーのこうした怒りが容疑者に向かってしまうんです。彼は容疑者に暴力的に立ち向かうことで問題が解決すると思っているのですが、そんなの全然解決じゃないですよね。それにヨアンのほうは正規の捜査手順を踏まないと捜査全体がだめになると考えて捜査手順を大事にしているので、彼の怒りも買ってしまいます。

映画では、世界の犯罪や戦争や他のなんであれ、暴力の95パーセントを男性が起こしていることへの疑問を提示しています。暴力と男らしさに繋がりがあるのはなぜなのか、なんらかの手立てでそれを変えられるのかという疑問を。私は男性全員が自分自身と自分の行動を精査することでしか変えられないと思います。でも、いまだに長い道のりですね。不幸なことですが。

「男が男だけでいるとき、かえって感情や問題点や疑いなどを打ち明けにくい」

―未解決のヘイトクライムを描いているのに、希望も同時に描かれています。女性のベルトラン判事や刑事ナディアの登場で、もしかすると事件が解決するかもしれない。

はい。最後には助け、あるいは希望が見えてきます。彼はもうギブアップしそうなところにいたのですが、それでも……このめちゃくちゃな状況を解決できるかはわかりませんし、どうすればいいかもわからず、仕事もどう続けたらいいかわからない。でも、女性判事と若い女性刑事のおかげで、また、被害者の親友のおかげで、捜査を続けることの重要性、できそうなことをなんでもやってみることの重要性に気づくんです。解決できる保証はどこにもないのですが、ヨアンはもうほとんど、被害者の借りを返さなければならないかのように続けていくんです。でも、本当におっしゃる通り、最後には希望があるんです。

―刑事や判事が登場する以前、被害者の友人のナニーへの調査では、彼女に偏見を指摘されます。じつは女性の存在感が強い作品ですね。

才能ある俳優に恵まれたのはすごくラッキーだったなと思います。もちろん、ナニー、被害者の親友を演じた彼女のかなりエモーショナルなシーンが映画の真ん中に来ています。そこでヨアンは、自身の仕事について少し違う角度から考え始める。彼女はその感情をすごくよく伝えてくれました。女性たちはみんな素晴らしい仕事をしてくれましたね。

―原作は警察のノンフィクションですが、女性を登場させるのはオリジナルのアイデアでしたか?

ノンフィクションの原作は、つまり実際の事件では、殺人事件の3年後に再捜査を決意する判事は出てくるんです。でも、映画の中の判事がヨアンと交わす会話は本の中にはまったく出てきませんでした。あれは私たちが足したものです。女性刑事も原作には出てきません。そこも私たちが足した部分になりますね。

なぜ女性判事や女性刑事の場面を足したかというと、物語の重要なパートとして男性から女性に向けられた暴力を組み入れたときに、この二人の登場人物を加えるとテーマを展開しやすくなると感じたからです。例えば、女性刑事のナディアが「男性が犯罪を犯して男性が捜査するって、おかしくないですか?」と問いかける、こういう質問が面白いし重要だと思ったから入れたんです。また、ヨアンが二人の女性に助けられて考え方が変わっていくのを見せるのも重要なんじゃないかと感じました。

私自身、撮影前にグルノーブルの捜査班を1週間取材したとき、男が男だけでいるとき、かえって感情や問題点や疑いなどを打ち明けにくいことに気づきました。そうすると“弱さ”を見せることになるし、男はほかの男に弱さを見せたくない。だから男だけのときは馬鹿話ばかりしていたりします。誰も「なあ、俺はほんとに落ちこんでいるんだ」とか「仕事で鬱になった」なんて言いません。ですからこの映画でも、アクシデントがない状態でヨアンが心情を打ち明けるのは、判事とナディアの前だけ。彼女たちが“女性だから”なんです。女性にとっては内面の感情を伝えあうのは当たり前のことだから、彼も疑いや疑問を伝えやすくなるのがリアルだろうと考えました。男同士では弱さを見せたくないのでプロテクトがかかってしまうんだと思います。

「とにかくリストをチェックして件数を上げろ、これがフランス警察の大問題」

―無口で理性的なヨアンを演じたバスティアン・ブイヨンの演技がリアルでした。班長になったばかりの頃はまだ呑気な顔で明るく笑っていて、事件にとりつかれると別人のようになります。どのように演出されましたか。

バスティアンには、「ヨアンはとにかく真面目なんだ」と言ったと思います。もちろん対照的なキャラクターとしてマルソーがいて、マルソーは自分の感情に圧倒されてしまうような人物です。ヨアンも同じように感情に圧倒される可能性があるんですが、そうなりたくないからこそ自分の生活と仕事をものすごく律していて、とても真面目に厳密に捜査手順を守っているし、感情に支配されないために何もかもきっちりやっている。だから独身でいることを選んでいるし、だから仕事に集中できるんです。

自転車でトレーニングするシーンも彼のストレス解消法で、仕事に集中しすぎることがポイントなんだ……ということをバスティアンに言いました。バスティアンは、それを全部やり遂げてくれました。ヨアンが口数の多いキャラではないから、彼に好感を持ったと思うんです。マルソーはすごく喋りますが、ヨアンは聞くタイプ。でも、彼の眼差し、彼が人を見る見方で伝えられることから多くが伝わって、それがものすごく強い。目で語るのがいいんです。

―新自由主義経済の中、公務員の人件費や設備に予算が回らず、刑事たちが捜査だけじゃなく使えないコピー機などで大変な思いをしているシーンも描かれていました。こうした場面は意図して描こうとされたんでしょうか。

そうです。つまり、そういうことが彼らの日常業務で捜査員の生活だからです。これがリアリティなんです。彼らは長時間残業して、残業手当はほぼつきません。しかも支給されている物資はちゃんと使えなかったりします。車とかも。

フランスの問題は、というか他の国にもそういうことがあるのでしょうが「オーケー、我々は今週100件解決した」みたいに政府が数字だけで物事を判断したがることです。でも政府は、どんな犯罪を解決したかにはあまり興味がない。たとえば、そんなに累犯を犯していない小者の売人を何人も逮捕したところでドラッグビジネスそのものにはあまり変わりがありません。でも一人逮捕すれば一件解決したことになってしまう。そして殺人のような大きな犯罪は、時間と人手がかかるから政府の関心を引きません。政府にとっては数字だけが大事なのでそうなってしまうんです。

そうしてまったく不必要な不法移民の逮捕に警官を送ったりしています。リストをチェックして件数を上げろ、というわけです。これがフランスの大問題なんです。しかも最近、ただ数字を上げるだけのために優秀な捜査員まで他の警官がやっているような軽犯罪に従事させる法律が通ってしまいました。まったく馬鹿げています。

「監督のいいところは、ただの言葉でしかなかったものが、突然現実になるところ」

―音楽が素晴らしかったです。劇中で容疑者が唄う歌までもオリジナルだったことに驚きました。既製曲を使わずオリジナルにしたのはなぜですか?

第一に、ヒットソングを使えば著作権料を払わなければならなくて、たいてい高いじゃないですか。それが理由の一つですが、80年代風の曲を作っちゃおうというアイデアが気に入って、作曲家のオリヴィエ・マリゲリと作ってみました。私が歌詞を書いて、彼が曲を書いて。みんな本当に80年代にあった曲だと思ったみたいです。オリジナル曲を作るのは思った以上に楽しかったですよ。

―#Metooムーブメントや、それ以降の映画業界の変化は影響がありましたか?

イエスであり、ノーです。つまり『12日の殺人』は10年前だったら同じ映画になったとは思えません。多分いまと同じような問題意識は抱いていなかったと思うんです。こうした意識が芽生えたのは、やはり#Metooムーブメントがあったからです。

ですが、撮影現場での態度という話になると、私は#Metooで特に態度を変えていません。私は男性にも女性にも、つまり現場で働いている人には誰にでもリスペクトを持って接しようとしてきました。自分より地位的に低いからといって、ひどい扱いをする人を見るのがもともと嫌いなんです。ですから私の中では特に変わったことはありません。私の撮影現場では、みんなハッピーに働いてもらいたいんです。

―これまでほとんどの作品でご自分で脚本を書いておられます。脚本と監督、どちらの作業を楽しく感じますか?

ほとんどの脚本を書いているけれど、大体は共同脚本家のジル・マルシャンと書いています。彼も監督兼脚本家で、彼の監督作でも私が共同脚本家なんです。我々はほぼ40年前に映画学校で出会ったので、すごく長く一緒に仕事していることになりますね。彼と働けるのが脚本を書くのを楽しめる理由でもあります。いいチームだし、一緒に仕事するのを楽しんでいます。監督とはまた全然別の仕事で、脚本を書くときは二人だけで座って、必要なだけ時間をかけて、1週間休んだりすることもあります。

それに対して監督するときは、もっと……エネルギーの密度が濃くないといけないというか、まったく違う仕事なんです。どちらも好きですが、監督のいいところは、俳優やセットを選んで映画を準備していくと、紙の上に書いたただの言葉でしかなかったものが、突然現実になるところ。俳優が演じることで登場人物が突然リアルになって、そこにはほとんど魔法みたいな何かがあります。自分が考えていたことが突然、現実になる。

そして編集、これがまた違う仕事で、撮影した素材が揃った状態でまた考えたり、経験したことを経験し直す時間ができます。それぞれまったく違う作業ですが、違ったそれぞれの作業が好きだと言えますね。

―両方楽しんでいらっしゃるんですね。

もちろん毎回“何でも楽しい”というわけにはいかなくて、迷ったり、自分が書いたものを読んで「これではうまくいかない」と思ったりすることもありますよ。迷いはいつもあるけれど、それもプロセスのうちなんです。そうして、迷いを受け入れたり疑いを克服して仕事を続けるんです。そうやって仕事を続けるのが大事なんだと思います。

取材・文:遠藤京子

『12日の殺人』は2024年3月15日(金)より新宿武蔵野館、ヒューマントラストシネマ有楽町ほか全国ロードショー、3月16日(土)よりPrime Video、U-NEXTにてオンライン上映開始

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