【中原中也 詩の栞】 No.60 「早春散歩」生前未発表

空は晴れてても、建物には蔭(かげ)があるよ、
春、早春は心なびかせ、
それがまるで薄絹ででもあるやうに
ハンケチででもあるやうに
我等の心を引千切(ひきちぎ)り
きれぎれにして風に散らせる

私はもう、まるで過去がなかつたかのやうに
少くとも通つてゐる人達の手前さうであるかの如くに感じ、
風の中を吹き過ぎる
異国人のやうな眼眸(まなざし)をして、
確固たるものの如く、
また隙間風にも消え去るものの如く

さうしてこの淋しい心を抱いて、
今年もまた春を迎へるものであることを
ゆるやかにも、茲(ここ)に春は立返つたのであることを
土の上の日射しをみながらつめたい風に吹かれながら
土手の上を歩きながら、遠くの空を見やりながら
僕は思ふ、思ふことにも慣れきつて僕は思ふ……

【ひとことコラム】春の訪れに向き合う心の内にどうしようもなく湧き上がる淋しさ。着実な季節の移り変わりに対して、孤独な歩みを続ける自身の生の不確かさを感じずにはいられないからでしょうか。明るい陽光の中を冷たい風が吹き過ぎる早春独特の季節感が冒頭の一行に凝縮されています。

中原中也記念館館長 中原 豊

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