「江の川」を見つめ続けた元教師のメッセージ 川漁師の漁具収集 生活の知恵も聞き取り ふるさとの子どもたちに伝えたかったこと

ふるさとを見つめ続けた教師がいました。黒田明憲 さん。

黒田明憲 さん(1993年・退職後の送別会)
「闇雲に歩いても必ず誰かが展望を開いてくれた」

2023年に89歳で亡くなるまで、多くの人に慕われた “名物教師” です。黒田さんがこだわり続けたのはふるさとの川「江の川」。

川で生きる人たちに光を当て、川の文化を子どもたちに伝えてきました。その思いは教え子や地域に受け継がれ、動き始めています。

三次鵜飼 鵜匠会 日坂文吾 会長
「黒田さんと出会って考え方が少しずつ前向きに」

黒田さんが残したメッセージを深掘りします。

2023年10月、広島県三次市の元教師が89歳で亡くなりました。黒田明憲さんという方です。県北部の小・中学校に勤め、若い頃から “名物教師” として知られた黒田さん。こだわり続けたのは「子どもたち」、そして「江の川」でした。

広島県立歴史民俗資料館 西村直城 学芸課長
「こちらが収蔵庫になります。展示してあるのが全て、江の川流域の漁労用具、当館に寄贈されたものです」

江の川流域の川漁で使う漁具が納められています。アユを捕る「網」。何度も修繕しながら大切に使いました。「モジ」と呼ばれるワナ。獲った魚を入れる魚籠…。川漁師たちに聞き取りをして、使い方はもちろん、1つひとつの背景にある伝承や暮らしぶりまで記録しています。

1999年、そのていねいな収集方法は高く評価され、1200点あまりが西日本では初めて、国の「重要有形民俗文化財」に指定されました。

黒田明憲 さん(1999年)
「ものをいただくということは川漁師の知恵と心をいただく。漁具にまつわる苦労話、魚をとる苦労話…」

漁具を集めたのは、黒田明憲さんです。1980年代から調査に加わり、学芸員と一緒に川漁師たちの自宅を一軒一軒、訪ねて歩いたといいます。

広島県立歴史民俗資料館 西村直城 学芸課長
「ものだけだと将来、何に使ったものかということになるけど、黒田先生がいなかったら、ここまでのものは集まっていなかっただろうなと思います」

黒田明憲さん(1987年5月・当時 総領小学校長)
「みんなの期待どおり、早くプールを開くようにしましょう」

37年前の黒田さんです。総領小学校の校長を務めていました。

出身は庄原市比和町です。年々、魚が姿を消していく「江の川」の現状を知るため三次から河口の島根県・江津市までの130キロを、3日間かけてイカダで下る型破りな旅を続けました。

過疎が進むふるさとの良さを伝えようとイベントや学習会を企画。「漁撈文化研究会」を発足させ、川漁に関する多くの記録を残しました。

江の川漁協 元組合長 辻󠄀駒健二 さん(79)
― ここは?
「漁船の、漁船の倉庫ですよ」

黒田さんと親交を深めた、江の川漁協の元組合長、辻󠄀駒健二 さんです。当時、漁具を集める調査に協力し、黒田さんに川漁師たちを紹介しました。

江の川漁協 元組合長 辻󠄀駒健二 さん
― これ、何人乗り?
「乗るのは2人」

― どうやって動かす?
「竿とかいです。網を積んでいって、網を張るじゃない。張ったら今度はカーバイト、ガスランプ、それに火をつけて、それで今度は川棒で川をたたくわけ。こうしてアユを脅すわけ」

三次市を流れる「江の川」。古くから川漁が盛んに行われてきました。辻󠄀駒さんも幼いころからアユやウナギを捕り、川漁師として生きてきました。

江の川漁協 元組合長 辻󠄀駒健二 さん
「昔はにぎやかなことよね」

― いっぱい船があって?
「そうそう、タバコ談義でね、暗うなったけ、ぼちぼちやろうか言うてね。くじを引くわけなんよ。みながおるときにこがぁにしてやるんよ。ここを持っとるから分からんじゃん。今度はこれ持ってお前どこかといったら、あんたこっち、もう1人こっち持つじゃろ。そうすると…はい、こういうふうに引っ張っていく。お前が1番」

― 舟を出す順番?
「そう、舟を出す順番」

以前は、とれた魚を全員で均等に分け合っていたといいます。黒田さんは、川漁師たちの習慣や生活の知恵なども熱心に聞き取りました。

江の川漁協 元組合長 辻󠄀駒健二 さん
「漁具1つひとつには生活の物語があるんだと。見せ物じゃないと言うて断る者もおったが、先生に根負けをしてからね。玄関にへたりこんで年寄りと話をする。先生の情というものをね、地域の方の心が緩んで和らいでから話をしていくということよね」

黒田さんが関心をもった一つが「網」だったと辻󠄀駒さんは振り返ります。

江の川漁協 元組合長 辻󠄀駒健二 さん
「網が破れたのをとにかく大事にね。先生が『世界地図みたいなもんじゃ』と。全部、修理したあとじゃと言ってね」

黒田さんの勧めで、川漁師について人前で語るようになったという辻󠄀駒さん。黒田さんが大きな誇りを与えてくれたと感じています。

江の川漁協 元組合長 辻󠄀駒健二 さん(79)
「自分らがやってきたことが文化だといわれりゃ、はあ、わしらのやってきたことが文化か、言うてね。先生はうなずきながらね、自分の講演の話を聞いてくれよったけえね。あー、よかったよかった言うてね。話を。今でもこうして話しよりゃ涙が出るがね。先生の出会いがあって…」

三次の夏の風物詩、観光鵜飼―。「江の川」は古くから漁業としての鵜飼が行われていた場所です。

三次鵜飼・鵜匠の 日坂文吾 さんは、黒田さんからある “思い” を託されていました。

三次鵜飼 鵜匠会 日坂文吾 会長(50)
「『古代の鵜飼いを復活させてくれ』と。“おがら” を使った三次鵜飼の復活というのを掲げられた」

昭和初期の鵜飼の様子です。「おがら」と「カーバイトランプ」をつけた舟が入り交じっています。「おがら」とは麻の茎を乾燥させたもので、束にして火をつけ、明かりにします。

三次では、古くは漁で「おがら」を使っていました。時代とともに「カーバイトランプ」、そして「LEDライト」へと移り変わりました。漁業として行われていた頃の三次鵜飼の伝統を受け継ぐため、黒田さんは「おがら」を使う、昔ながらの鵜飼い=「古代鵜飼い」の再現を日坂さんに託したのです。

三次鵜飼 鵜匠会 日坂文吾 会長
「黒田さんのしのぶ会の時も、最後にみなさん方の前で、そして黒田さんの前で、いつかやりますよっていう約束をして。やっぱり古代の鵜飼はこうだったんだよって周知もできるし。三次にお客さんを呼ぶこともできると思われたんだと思います」

日坂さんは「古代鵜飼い」をイベントとして復活しようと、少しずつ準備を始めています。

2019年に第1回が開催された、地元の子どもたちが大人と一緒に “夢” を語り合うシンポジウム「里山と都市をつなぐ集い」。黒田さんが発起人でした。コロナ禍での中断を経て、2024年3月24日に第2回を三次市で開催するため、この日、スタッフが集まりました。

スタッフ(黒田さんの元教え子)
「もともと黒田先生は人のいいところを伸ばすっていうのがすごい上手な方」

スタッフ
「もう、これはって思った人はどんどん巻き込んで、すごい大きな輪を作って」

スタッフ(黒田さんの元教師仲間)
「ある意味じゃ恐れよったです、わたしなんか。電話がかかってくると、またなんか来たって…」

「しのぶ会」の実行委員長も務めた 村井政也 さんは、「江の川」と「子ども」にこだわり続けた黒田さんを、そばで見てきました。

「しのぶ会」実行委員長も務めた 村井政也 さん(79)
「昔は全部、川で遊んでいた。だけど最近はその川が、いわゆる堤防ができ、むしろ川から離れる…、危険だから。そうでなくて、川をもっと自分たちのふるさとの大切なものとして親しもうという気持ちがあったんじゃないですかね。黒田先生は」

1993年―。教師を退職したときに開かれた送別会で、黒田さんはこう話していました。

黒田明憲 さん(1993年・退職後の送別会)
「1人でできんことが2人、3人となればできる。学校だけではできんことが地域と結び、運動と結べばできる」

黒田さんのメッセージが広がっています。

◇ ◇ ◇

黒田さんは勉強だけではなく、人と川のつながりも教えてくれました。その教えはみなさんの心に残っています。“地域の宝物” を再認識させてくれた人―。昔は川がもっと身近で、いろんなことが学べる場所でした。魚も多かったといいます。護岸改修などで川の環境は時代とともに変わっていきました。

江の川をもう一度、人が集まる場所にしたい―。川にまつわるイベントを開き、地域を巻き込んで川の文化を取り戻そうとした。そんな黒田さんが残したイベントの1つ、「里山(ふるさと)と都市(まち)をつなぐ集い」が、2024年3月24日の午前10時から三次市の「みよしまちづくりセンター」で開催されます。黒田さんの思いは確実に受け継がれています。

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