宮藤官九郎は『ふてほど』“最終回”とどう向き合う? 視聴者への“問いかけ”の先にあるもの

もはや“今の社会をどう見てどう生きているか”のリトマス試験紙にもなっている宮藤官九郎脚本のドラマ『不適切にもほどがある!』(TBS系/以下、『ふてほど』)。最新話の放送中からSNSにはさまざまな意見が飛び交い、O.A.終了後には異なる視点で書かれたコラムやレビューがWebの波を埋め尽くし、久しぶりに会う友人とは「『ふてほど』、どう思う?」から、互いのアップデート具合を確認し合う。近年のドラマでここまで視聴者や識者の反応が割れ、議論を生んでいる作品は他にないのではないか。

私自身、『ふてほど』を視聴しているひとりとして、「マジか!」「あった、懐かしい!」と大笑いしながら「あれ、ここ笑って問題ない箇所だっけ? それともちゃんと考えるべきシーン?」と1986年と2024年の狭間で混乱してしまい、物語の構成が頭に入ってこなくなる瞬間がある。こういう感覚に襲われるのもこれまでにないことだ。

そんな初めての感覚と向き合いながら毎話真剣に視聴している『ふでほど』だが、3月8日に放送された第7話「回収しなきゃダメですか?」はストーリー自体に大きな展開はなかったものの、書き手としての宮藤官九郎から視聴者へ多くの問いかけがなされた回だと感じた。

第7話は主人公・小川市郎(阿部サダヲ)の娘・純子(河合優実)まで昭和から令和にやってきて、つかの間の未来を楽しむターンと、16年ぶりに連続ドラマを書く脚本家・エモケンこと江面賢太郎(池田成志)+テレビ局の面々とのターンに加え、令和から昭和に戻り、そこで生活する社会学者の向坂サカエ(吉田羊)のターンで構成されていた。

同時進行する3つの物語の中で宮藤氏からの問いかけをもっとも強く感じたのは、当然エモケンとテレビ局員のターンだ。他局の新ドラマが始まった瞬間、EBSテレビのスタッフたちもSNSに張り付きリアルタイムで視聴者の反応をチェックする。その光景に違和感を覚えた市郎にドラマ班プロデューサーの羽村(ファーストサマーウイカ)は言う。

「今の視聴者はSNSで考察や実況をしながらドラマを見るんです。それが彼らの承認欲求にも繋がる」

それに対する市郎のアンサーはこうだ。「そいつら(作品を)観てねえな」。シーン自体はさらっと流れたが、これはその後の羽村「でも彼らも大事なお客さんだから無下にはできないんです」まで含め、制作側から視聴者へ向けた痛烈なカウンターだろう。

また、脚本が書けず追い詰められたエモケンはエゴサーチし、断筆を決意するが、ここでの市郎とエモケンのやり取りも一種のメタファーになっていた。特にエモケンの「観なくていいかどうかは観なきゃわかんねえ!」のA面はエゴサについての言及だが、B面に作品をきちんと視聴せずに評価を下そうとする人間への皮肉が仕込まれていると感じたし、その次のエモケンのせりふ、「1話だけ観て切り捨てるようなニワカなんて相手にしてられないよ!」はそのままズバリだ。

ただ、宮藤氏が市郎やエモケンに自身のモヤモヤをただ代弁させ、作品内で一方的な主張を展開しようとしていないことは、純子のデート相手・ナオキ(岡田将生)が警察からの去り際に語った「僕、ドラマって全部通して見たことないんですよね。たまたまテレビつけたら6話とか7話とかだけやってて、その回が好きなら僕にとってそれは好きなドラマです」との言葉を市郎が否定せず、どこか納得した表情で聞いていたことからも読み取れる(このせりふはドラマの話数と純子をかけてのものだが)。

クドカンこと宮藤官九郎の脚本には情報量が多い。体感で通常のドラマの1.5倍程度といったところか。『ふてほど』第7話でも大量に放り込まれる昭和の小ネタに加え、キヨシ(坂元愛登)と純子が不登校の友人宅を訪ね、ファミコンで遊ぶシーンは『池袋ウエストゲートパーク』(2000年/TBS系)でマコト(長瀬智也)がひきこもりのパソコンおたく・森永(高橋一生)の家を訪ねる場面のセルフオマージュ=「そっちが来られないならこっちが行けばいいじゃん」にも見えるし、エモケンの脚本(構想)に純子とナオキの江の島デートがそのままオーバラップしていくさまは『タイガー&ドラゴン』(2005年/TBS系)で落語に現実がリンクする手法を想起させられる。

さて、物語も終盤である。市郎は孫にあたる渚(仲里依紗)や娘婿のゆずる(古田新太)から1995年(平成7年)1月17日に起きた阪神・淡路大震災で自分と純子に“最終回”が訪れることを聞いている。これまで『あまちゃん』(2013年/NHK総合)で東日本大震災、『いだてん~東京オリムピック噺~』(2019年/NHK総合)では関東大震災を真摯に描いた宮藤官九郎がこの『不適切にもほどがある!』で阪神・淡路大震災とどう対峙するのか。

じつは第7話でもっとも心を動かされたのは、令和の渚宅で市郎、ゆずる、純子、渚、渚の子の4世代が、たこ焼きを焼きながら比較的どうでもいい話をしているシーンだった。本来ならば集うことはなかった4世代。純子は会えないはずの自身の孫をそうとは知らずに無邪気にあやす。日常的な場面であるからこそ、時空のゆがみが生んだ幸福な“未来”の姿が切なく響いた。ここに過剰な“エモさ”を持ち込まないところが宮藤氏の筆致だ。

冒頭にも書いたが、『ふてほど』がさまざまな視点から物議を醸していることは承知しているし、私自身、特にサカエのキャラクターや言動に違和感を覚えることもある。そのうえで、まずは“最終回”まで見届けようと思う。

(文=上村由紀子)

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