黎氏、『りんご日報』に過激化指示

外国勢力との共謀罪に問われた壱伝媒集団創業者である黎智英(ジミー・ライ)氏の裁判は3月11日、公判42日目に入った。12日付香港各紙によると、元論説委員の楊清奇氏(ペンネーム・李平)は先に、2018年にペンス副大統領がハドソン研究所で対中国政策について講演した後、黎氏が急進的になったと証言。検察はその年の黎氏と楊氏の会話を公開し、黎氏は「ペンス氏の演説を聞いたところ、米国が日本など西側諸国を率いて対中政策を再調整するのは明らかだ。タイミングは完璧だ」「中国の弱みにつけ込んで、さらに侮辱を加える」と述べた。楊氏は19年の逃亡犯条例の改正反対デモについて「米国が中国に対して銃を構えたとき、香港が銃口を塞ぐために立ち上がれば、米国が攻撃する標的を自ら与えるようなものだ」と評すると、黎氏は新聞の位置を調整したという。検察は主尋問を終え、弁護側は12日から楊氏に対する反対尋問を開始する予定で、反対尋問には2日程度かかる。

楊氏は先に、黎氏と『りんご日報』が18年以降ますます過激になったと証言した。検察は11日の法廷で、18年10月5日の楊氏と黎氏のWhatsAppでの会話記録を明らかにした。楊氏はペンス副大統領のハドソン研究所での対中政策演説の内容を黎氏に送り、演説の内容について議論した後、『りんご日報』の論説で「米国が宣戦布告、香港は銃に立ち向かう」を執筆し、18年10月6日付に掲載された。楊氏は記事を書いた後、精読するために黎氏に原稿を送ったが、「彼(黎氏)には何の意見もなかったような印象を受けたので、翌日の新聞に掲載された」という。楊氏は「黎氏は新聞運営において状況の変化や読者のニーズを捉えるのも上手だと思う。米国の対中政策の変化を見て、新聞の立場を調整するだろう」と述べた。

楊氏はまた『りんご日報』のその後の変化を観察し、「逃亡犯条例の改正反対運動におけるりんご日報の過激な姿勢はよく知られている」と率直に述べた。 楊氏は「(りんご日報の)ニュース報道で『上街(デモに参加する)』という言葉をよく目にしたが、良いタイトルだとは思わない」と告白。「黎氏のコラムは市民に常にデモに参加するよう呼びかけている」と述べた。楊氏は、黎氏のコラムや『りんご日報』のニュース報道から、黎氏とりんご日報は「過激派と平和派を区別しない」、つまり「過激派を非難せず、一線を画さない」ことを支持していることが分かると述べた。香港版国家安全法が施行されたとき、黎氏は『りんご日報』に対し見解や立場を変更するような指示は出さなかったという。

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