柳沼 "SMILEYyagi" 宏孝 - 55年にわたる人生、10代から続く音楽生活に関わったすべての人たちに感謝を捧げる初のソロアルバム『Thank you』に込めた思い、盟友・南野信吾に今なお抱く心情を語る

すべては磯江俊道の無茶振りから始まった

──ソロアルバムを作る構想は以前からあったんですか。

柳沼:いや、全く(笑)。今回、全面的に楽曲提供してもらった磯江(俊道)さんには4-STiCKSの新作を録りたいとずっと伝えていたんですけどね。事の経緯としては、磯江さんからある日突然LINEが届いたんです。「自分が曲を作るので唄いませんか?」って。それが去年(2023年)の2月くらいの話で、3月に新宿LOFTでやるVERTUEUXの企画(『“キラッキラッナイト”トライアル編』)に間に合わせたいと。自分としてはいきなり何のこっちゃい?! って話だったんだけど、磯江さんとしては僕のシングルを出したいと。で、イベントの9日ほど前に歌詞の一部と曲のワンコーラスが入ったデモが2曲分送られてきたんです。その6日後に急遽レコーディングすることになって、当日、スタジオへ向かう間にLINEで歌詞がポンポン送られてきて。スタジオに着いたらちゃんと曲も覚えていない状態でいきなり「やってみましょう」とブースに入らされて、わずか3時間ほどで2曲を録り切ってしまったんです。唄いながら曲を覚えるという荒技で(笑)。

──その2曲というのは?

柳沼:今回のアルバムにも入っている「命脈」と「Get the hell out!」です。その2曲を『End of Life』というタイトルで販売することにして、売上の一部を(南野)信吾の家族へお渡しすることにしたんです。それが図らずも、2023年12月に55歳を迎える“GO GO(55)SMILEY”の企画第1弾になったんです。磯江さんとの話はそれきりだと思っていたんですが、その後、6月くらいになって「また曲ができましたよ」と連絡をいただいて。そうなると、あと数曲足せばアルバムになるし、これはもうソロ作を作るしかないのかなと思って。それを磯江さんに相談したら「やりましょう!」と即決で(笑)。ちょうど12月に会社(株式会社ピーシーズ)の設立15周年企画と55歳の生誕祭が新宿LOFTであるので、そこにリリースを合わせて作業に入ることにしたんです。

──ということは、磯江さんの無茶振りからすべてが始まったわけですね。

柳沼:そうなんです。歌のレコーディングは5年振りだったし、ソロアルバムを作りたいなんて自分ではまるで考えていませんでした。でもせっかくの機会だし、アルバムにするなら自分の曲も入れられるし、1曲くらいは本業であるベースを弾いておきたいとも思って。あと、今は4-STiCKSでも唄ってもらっている中尾諭介の歌も入れたかったし。

──今回の『Thank you』に打ち込み主体の曲が多いのは、バンドマンを本来の生業とする柳沼さんが普段やれないことをソロ作品で敢えてやろうとしたからだと思っていたのですが、成り立ちとして磯江さんありきの作品だったからなんですね。

柳沼:磯江さんに曲もオケも作ってもらうのが前提だったので。最初は全曲でベースを弾いてくださいと磯江さんに言われたんですけど、技術的にムリで(笑)。生演奏に比重を置いた作品はまた今度作ろうという話になり、今回は磯江さんのオケ主体の曲で固めることにしたんです。

──柳沼さんにいきなり「唄いませんか?」と持ちかけたということは、磯江さんが柳沼さんにボーカリストとしての資質があると見抜いていたのでは?

柳沼:どうなんでしょうね。真意は未だにちゃんと聞いてないんですけど。ただ、磯江さんはレコーディングで凄く褒めてくれるんですよ。録り終えるたびに「素晴らしい!」って(笑)。僕もその言葉を真に受けるわけじゃないけど、乗せられて作業がどんどんスムーズに進むわけです。「パラノイア」と「夕空、焼けて」は通しで録って、2テイクくらいでOKだったんです。磯江さんに「涙が出ました!」とか言われて「またまた…」なんてやり取りをして(笑)。だから磯江さんに上手いこと乗せられて形にできたのは確かですね。

──こうして実質的に初のソロ作品が完成して、手応えはいかがですか。

柳沼:意外なことに、バンドマンの方々からの反響が凄い良くて。こういう路線じゃない、もっとバンドっぽい感じだと思ったという反応が多かったです。僕が“心の友”と呼ぶニューロティカのカタルっちには「二枚目だね」と言われました(笑)。あと、「ポップよりシティポップだね」という声も複数いただきましたね。これをシティポップとは言わないだろ? と思いつつ、僕は自分のスタンスや自分の音楽をロックとは敢えて言わないし、ポップさが出るのは自分らしいところではあると思います。ロックはもちろん好きなんだけど、その定義はさておき、何でもかんでも「ロックだね」の一言で片づけるのはなんか違うなと若い頃から感じていたので。ロックの本質と程遠い人たちほど“自称ロック”を言いたがるし、それをわざわざ指摘するのも無粋だし、少なくとも僕は自分でロックだとは絶対に言わないぞと昔から決めているんです。

──そうした柳沼さんの信条もあったからこそ、4-STiCKSはポップな血中濃度が高いバンドだったのかもしれませんね。

柳沼:そう思います。僕のソロアルバムよりも4-STiCKSのほうがよっぽどシティポップらしいし(笑)。だけど『Thank you』の評判が良いのは素直に嬉しいですよ。

まな板の鯉のように楽曲もプロデュースもお任せ

── 一曲ずつ聞かせてください。明るく社交的な柳沼さんのパブリックイメージを覆すようにダークでブルージーな「パラノイア」ですが、この曲のみバンド編成の生演奏でレコーディングされていますね。

柳沼:この「パラノイア」だけ自分で作詞(桑原俊行との共作)・作曲したものなんです。10代からバンドをやってきたわりには自作曲が極端に少なくて、自分で作る曲はどちらかと言えば暗いものが多いですね。これはその中の一つで、20年くらい前に作ったものです。敬愛するポール・マッカートニーが「今日作った曲を明日まで覚えていたら名曲だ」とインタビューで答えていて、その言葉がいつも頭の片隅にあったので寡作なのかもしれません。だから「パラノイア」は“明日まで覚えていた”一曲と言うか。

──ギターのタッチやうねりが全盛期のジュリー(沢田研二)の楽曲を彷彿とさせるところがありますね。

柳沼:昭和の歌謡曲は自分のルーツでもあるし、その要素が出るんでしょうね。その一方、出だしのドラムはもっと90年代のドラムンベースみたいな感じにしても良かったかなと思って。最初に始まる無機質な電子音楽をガシャン!と壊して有機的な生演奏が始まる…というのがもともとのイメージとしてあったので。でも結果としてこのイントロで大正解だったし、凄く気に入っているんですけど。

──「パラノイア」のベースとギターは生音ですが、ドラムだけは打ち込みなんですよね。

柳沼:最初は誰かに叩いてもらう予定だったんだけど、スケジュールが合わなくて。でも自分が期待していた以上に大満足の仕上がりなので、結果オーライです。

──“パラノイア”=“偏執病”、“妄想症”という意味で、こうした深い闇を感じる曲を冒頭に配置するのは意外性とインパクトを与える効果がありますね。

柳沼:心の中は闇だらけなのかもしれないし、家じゃ暗いですから(笑)。最近はMCの明るいイメージが強いのかもしれないけど、自分の性格は本来、暗いほうだと思うんです。「パラノイア」の作詞は共作だからまだ抑えられているけど、自分一人で書いた詞はもっと内向的ですよ。「パラノイア」はちょうど4-STiCKSが終わった後にやっていたバンドのために書いた曲で、一緒に作詞をした桑原はそのバンドでボーカルとギターでした。桑原とは高校時代からの付き合いで、今はナレーターとして活躍していて、スペシャやDAZNの番組などに携わっています。当時は桑原も僕も壁にぶつかり何をやっても上手くいかないところがあって、「パラノイア」みたいにダークな曲ができたのはそのせいもあるかもしれません。彼と一緒にやっていたバンドの曲も極端でしたね。めちゃめちゃ明るい曲をやったかと思えば、途方もなく暗い曲をやってみたりして。

──軽快なシャッフルビートに彩られた「Get the hell out!」はノリの良いブギーの曲調で、ライブ映えしそうな一曲ですね。

柳沼:自分ではちょっと布袋(寅泰)さんっぽい曲だなと思いました。こういう勢いのある感じなら唄いやすいだろうという磯江さんの判断があったのかもしれないです。この2曲目以降はどれも、中尾の「夕空、焼けて」を除いて磯江さんの作曲、川住かつおさんの作詞曲なんです。かつおさんが書くような物語性の高い歌詞は唄ったことがなかったので新鮮だったし、曲作りは基本的に任せてまな板の鯉になりきったのが良かったと思います。最初に完成した歌詞を読んで、自分には想像もできないものだと感じましたから。かつおさんにはレコーディングの最初にいてもらって、言葉の意味や譜割りを聞いてから即歌入れだったんですけど、唄い終えると「バッチリです」と言ってくれたんです。だけど自分としては、歌詞がちゃんと身体に入ってないまま唄ったので本当にこれで大丈夫なのか? と終始不安でしたね。身体に入った頃にはもう全テイクOKだったので(笑)。

──歌録りのディレクションで何か言われたことはありましたか。

柳沼:この「Get the hell out!」も最初はちょっとがなる感じで唄ったんですけど、「もっと自然に、柳沼さんらしく唄ってください」と磯江さんに言われました。自分では「ああ、そうなんですね」という感じで、言われるがままにプロデュースしてもらいました。

──変に取り繕うのではなく、柳沼さんのナチュラルな部分を引き出そうとしたと。

柳沼:だと思います。それを理解するまで多少時間がかかりました。こういう唄い方のほうがパンチがあっていいんじゃないかな? と感じても「もっと力を抜いて唄ってください」と言われるので、ここは磯江マジックを信じようと思って。

──理想とするボーカリストに唄い方を寄せようと考えたりはしませんでしたか。

柳沼:磯江さんの無茶振りから始まったので、そんな余裕もなく(笑)。ただ、自分が観てきたバンドのボーカリストたち…G.D.FLICKERSのJOEさんや信吾だったり、VERTUEUXのKen1君、中尾といった人たちから受けた影響はどうしたって出ちゃいますよね。今回のレコーディングでは、磯江さんに“歌謡曲”や“歌手”というキーワードを事前に伝えていたんです。シンガーソングライターでもないし、ベーシストに徹するわけでもない。磯江さんが作ってくれた曲を努めて唄うわけだから、今回の僕は“歌手”ですよね、って。“シンガー”と言うより“歌手”と呼んだほうが昭和世代にはしっくりくるんです。

同じベーシストに褒められるのは特に嬉しい

──3曲目の「命脈」は壮大なバラードで、“歌手” 柳沼宏孝が本懐を遂げるのにうってつけの曲と言えそうですが。

柳沼:凄く難しかったですね。「命脈」ができる前、磯江さんに「ミュージカルは好きですか?」と訊かれたんです。「裏方として仕事もしてるし、全然嫌いじゃないですよ。フレディ・マーキュリーみたいな感じで唄えばいいですか?」と聞いたら「クイーン、いいじゃないですか!」と言われて(笑)。そんなやり取りの後に自分でも『ボヘミアン・ラプソディ』を見直して、フレディと似てるのは胸毛くらいだなとか思ったりして(笑)。その後、曲の一部がLINEで届いたときはびっくりしましたね。歌詞の内容も人間の生命をテーマにした重いものだったし。

──川住かつおさんなりに柳沼さんを当て書きして作詞を書き上げたところもあったのでは?

柳沼:どうだろう。「命脈」に関してはただひたすら壮大なイメージで、果たして自分に唄えるのか? と心配でした。そのイメージに合わせて声を張り上げて唄うと「もっと自然に唄ってもらって大丈夫です」と言われたし、どの曲でも張り上げて唄った部分は全部直されましたね。全曲後から自分でハモりを入れる作業も大変だったけど、良い経験ができました。

──スカのビートが心地良い「サイコロ」はブラスのアレンジが華やかで、本作の中でも一際印象に残る楽曲ですね。

柳沼:最初にデモを聴いたときにスカパラと奥田民生の曲みたいだなと(笑)。聴いた人みんなに言われますからね、「あのスカパラっぽい曲、いいですね」って(笑)。この「サイコロ」も同じく「がならないでください」と磯江さんに言われました。

──陰になり日向になり大切な人を支える側の気持ちをサイコロに喩えたような歌詞で、普段は屋台骨を支える役割である柳沼さんのことを唄っているようにも感じますね。

柳沼:奥が深い歌詞ですよね。かつおさんは裏方として働く僕の姿を知ってはいるだろうけど、「こんな歌詞にしましょう」と事前に話したわけでもないんです。録り終えて何度か聴くうちに歌詞の深みを徐々に理解できたし、気づかれずに誰かに寄り添いながら支える人の思いをサイコロに喩えるのは作詞家ならではの発想だし、自分にはとてもできない芸当ですね。「サイコロ」は特に周囲からいいと言われる曲で、とても嬉しいです。生演奏で披露すれば盛り上がるだろうし、スカパラ感がさらに増すでしょうね(笑)。

──「夕空、焼けて」は中尾諭介さんが2016年に発表した『オレンジの太陽』に収録されていた曲ですが、以前からお気に入りということで唄ってみようと?

柳沼:中尾が4-STiCKSで唄うようになってから、彼のライブに通うようになったんです。その前から「夕空、焼けて」はよく覚えていて、ライブのときはいつもリクエストするくらい好きな曲だったんです。せっかく自分のソロアルバムを作るなら入れてみたい曲だったし、中尾に「唄っていい?」と訊いたら「ぜひ唄ってほしいです」と言ってくれて。とにかく良い歌だし、まだ知らない人たちに伝えるためにもここで唄っておきたいと考えたんですよ。できあがってすぐ本人に聴かせたらとても喜んでいましたね。「ヤギさんらしい『夕空、焼けて』に仕上がっていて良かった」って。

──小滝橋LOFT的に言えば、ARBとはまた違う形の“ワークソング”ですよね。

柳沼:労働哀歌みたいなところもあるし、いろいろあるけど明日に向けて背中を押してもらえる歌ですね。G.D.FLICKERSのHAKUEIさんにCDを渡した後に会ったら、「やることやってりゃ それだけでビールがうまい」って「夕空、焼けて」の歌詞をいきなり言い出して、有難いことにちゃんと聴いてくださったみたいで。「歌が上手くなったね」と言われて照れくさかったですけどね(笑)。あと、中尾が亜無亜危異の(藤沼)伸一さんとやっている“ONE NIGHT STAND”というバンドでベースを弾いている曽我っち(曽我 “JETTSOUL” 将之)にCDを送ったら、「凄くいいよ! 今も聴きながらLINEしてるよ。2回目」と返事をくれて。こっちも調子に乗って「生バンドでやるときは弾いてよ」とお願いしたら「もちろん弾くよ!」と言ってくれて、日本屈指の素晴らしいベーシストにそう言ってもらえて凄く嬉しいです。自分と同じベーシストに褒められるのは特に嬉しい。最近は司会の人だと思われているし、「楽器も弾けるんですね」とか言われることもあるので(笑)。

──ストーンズのライブでもキース・リチャーズが唄うパートがあるし、こうしてソロのレパートリーができた以上、4-STiCKSのライブでも柳沼さんが唄うパートがあっても良いですよね。中尾さんの休憩タイムとして「夕空、焼けて」を唄ってみたり。

柳沼:このあいだも高円寺SAKURA-BURSTのオープン記念で中尾に「夕空、焼けて」を一緒に唄おうと言われて、「お前の歌を汚したくないから」と断ったのに結局唄うことになりまして。オリジナルの本人と一緒に唄うなんて、ものまね番組じゃないんだから(笑)。でもカバーするほど好きな曲だし、もっといろんな人たちに知ってほしいですね。

自分の人生に関わってくれたみんなと一緒に作り上げたようなアルバム

──アルバムの終幕を飾るのは、ミディアムテンポのメロディアスな楽曲である「黄昏」が最も相応しいと当初から考えていたんですか。

柳沼:「黄昏」のデモを最初に聴いたとき、アルバムのタイトルを『黄昏』にしようと思ったんですよ。それくらい印象に残る曲だったし、中尾の曲を唄わなければ「黄昏」を一押しにしていたと思うんです。この曲だけはなぜかスッと身体に入ってきたし、ああいう切なく染み渡る曲は個人的にも大好きなので。歌詞も程よく前向きで、4-STiCKSにはとても書けない曲だし。信吾の歌詞はちょっと前向きすぎるし、「ここは東京だぜ?」的な、どこかで聴いたことのあるメロディが多いので(笑)。

──アルバムタイトルを『黄昏』ではなく『Thank you』にしたのも磯江さんのジャッジだったんですか。

柳沼:アートワークのデザインをお願いした、HIGHZIE AND THE PLAYERSの(渡邉)灰二君に「『Thank you』がいいんじゃない?」と言われまして。「ヤギが55年生きてきて、いろんな人たちのお世話になったわけじゃない? 今回のソロアルバムもヤギの人生に関わったみんなで作り上げたようなものだし、そもそも4-STiCKSというバンド自体がそういう存在なわけだから、みんなに感謝の気持ちを表すようなタイトルがいいよ」って。言われてみれば確かにその通りで、4-STiCKSの前身バンドであるBOICEの『See Your Smile』というシングルを事務所の社長だったシゲさん(小林茂明、ロフトプロジェクト前社長)がポケットマネーで出してくれたとき、ジャケットが当時の新宿LOFTのスタッフや関係者の顔のコラージュだったんですよ。それも信吾が「みんなのおかげでシングルを出せたから」という理由で決めたデザインだったし、今回もそれと同じように自分が55年間生きてきた感謝の気持ちを伝える意味でも『Thank you』というタイトルにしたほうがいいなと思って。それで、今や少なくなってきた“Special Thanks”のクレジットを中ジャケにダーッと載せることにして。バンド仲間や仕事仲間、友人たちの後に、自分の家族、信吾の家族、橋本潤さん、シゲさん、一番最後に信吾と、僕の人生に欠かすことのできない人たちのお名前を列挙してみたんです。今の自分があるのはここに挙げたみなさん…特に信吾の無茶振りがあったからこそこうして今も音楽を続けていられるわけで、あらためて“ありがとう”と伝えたかったんです。

──確かに、32年前にVALENTZのベーシストだった柳沼さんを南野さんがBOICEに誘わなければ、今ごろだいぶ違う人生を送っていたでしょうね。

柳沼:それは間違いないですね。それに、磯江さんを紹介してくれたのもデジターボ(現・コンテライド)で働いていた信吾でしたから。信吾に磯江さんと、ずっと無茶振りが続いているんですよ(笑)。

──シゲさんも無茶振りが多かったですしね(笑)。

柳沼:そうそう。結局、そういう人たちに導かれてきたと言うか、どれだけその無茶に応えられるかでここまでやってきた(笑)。還暦になってこういう祝い事をやろうという気持ちは毛頭なかったので、このタイミングでお世話になった人たちに感謝の気持ちを述べておくのは良いことだと思えたんですよね。

──柳沼さんが今もずっと薫陶を受けているJOEさんからは、この『Thank you』に対してどんな感想をいただきましたか。

柳沼:「気持ち悪いな」って(笑)。でも自分の店(高円寺のバー、CHERRY-BOMB)でもたまにかけてくれているみたいで、「歌は多少上手くなったよな」とか各方面に好意的なことを言ってくれているそうです。僕には絶対、直接言わないでしょうけどね。

──今年も南野さんの命日である6月10日に新宿LOFTで『MINAMINO ROCK FESTIVAL』が行なわれますが、こうしてアルバムが完成した以上、ソロ楽曲をライブでお披露目するパートがあってもいいんじゃないですか。

柳沼:それがですね、4月24日という新宿LOFTが歌舞伎町へ移転した記念日に、華々しくソロ名義での出演が決まりまして。“SMILEY with FOREVER”というバンド名なんですけど。

──無茶振りを“永遠”に受け止めるという意味ですか?(笑)

柳沼:意味はお任せします(笑)。僕はベースを弾かずにボーカルに専念して、各パートはすでに揃えました。そこで評判が良ければ、6月10日も空きがあればやりたいと思っています。

──南野さんの追悼イベントを始めてから、早いもので今年で12年が経つわけですね。

柳沼:ここまで長く続けていると、新宿LOFTのスタッフもイベントの趣旨や進め方をよく理解しているから凄くやりやすいし、とても助かっています。ここ数年はようやく自分も少し楽しめるようになってきましたし。

南野の三女が20歳になるまでは『MINAMINO ROCK FESTIVAL』を続けたい

──2017年以降は『MINAMINO ROCK FESTIVAL』とタイトルをあらため、あまり湿っぽくならないような方向にしてきたのもありますよね。

柳沼:イベントを10年続けた後、BAD MUSIC代表の門池(三則)さんから助言をもらったことがあるんです。「もう命日にやるのはやめて、誕生日付近でやれば?」って。信吾の娘さんたちがいつまでも命日にとらわれるのは良くないんじゃないか? ということで。そこまで親身になってくれて本当に有り難い話だし、その提案をいただいてから自分なりに考えてみたんですけど、信吾の三女が20歳を迎えるまではやっぱりこのスタイルで続けたいなと思って。信吾が天国へ旅立った日にイベントをやることに意味があると僕は思っているけど、門池さんも娘たちの立場になって言ってくれたことなのでよくわかる。だから娘たち3人にあらためて訊いてみたんです。イベント自体をやめる、日にちをずらす、従来通り命日にやるという三択の中でどれがいいか? って。そしたら3人とも「これまで通り6月10日にやっていいよ」と言ってくれたんですよ。「それで大丈夫?」って訊いたら「大丈夫。いつもありがとう」と。そういう返事だったので、従来通りの形でやり続けることにしたんです。常に娘たちファーストでやってきたし、それを遵守した上で楽しくやっていきたいというのが今の『MINAMINO ROCK FESTIVAL』ですね。エンターテイメント性を保ちつつ、みんなで楽しく信吾のことを思い出してほしいっていう。ある種、小滝橋通りにあった時代のLOFTの同窓会みたいになっていますけど、去年はBOICEの初代ベーシストだった河瀬(真)君の息子さんがやっている“くゆる”というバンドに出てもらったり、新陳代謝も起きているんです。そうやって音楽の闘魂伝承ができる場所、先人が若手に大切なものを受け渡す機会としても『MINAMINO ROCK FESTIVAL』を続けたいという思いがありますね。僕ももう55歳になって、あとどれくらいこんなことを続けられるかわからないし。

──柳沼さんには上と下の世代を繋ぐ継ぎ手として、LOFTならではの意義深いイベントを仕掛ける旗手として、まだまだ頑張っていただきたいですが。

柳沼:年々涙もろくなってダメですね(笑)。去年の11月、信吾の長女と一緒に代々木競技場でマカロニえんぴつのライブを観たんですよ。LOFTのスタッフにチケットを取ってもらって。まさか信吾の娘と、LOFTと縁があるバンドのライブを一緒に観る日が来るなんて思いもしなかったし、とても感慨深いものがありました。ちょうど今回の「黄昏」をミックスダウンしていた時期で、ライブの後に一緒にご飯を食べて、もう18歳だから家まで送らなくても一人で帰れるわけですよ。駅で「じゃあね」と電車に乗る長女を見送ったら、そこで文字通り黄昏ちゃったと言うか、これが自分の娘だったら『いなかっぺ大将』の風大左衛門くらい大泣きするんじゃないかと思って(笑)。そんなことも重なって、この『Thank you』の作業は思い出深いものになりましたけど、自分が音楽に生かされているのをあらためて感じましたね。信吾の娘たちも音楽が好きだし、彼女たちの父親がバンドに誘ってくれたおかげで自分は今も音楽を続けているし、音楽を通じていろんなことが繋がっているのをこの歳になって実感します。最近の新宿LOFTのスケジュールを見ると、ベテラン勢と若い世代が程よくミックスされていてちょうどいいと思うんです。LOFTは老舗だけど次世代を担うバンドに活躍の場を与えるのはライブハウスの使命なので、どちらかに偏るのは良くない。小滝橋時代を知る世代と今の世代を上手くミックスさせるのが理想だし、どちらの世代も互いに声をかけづらいというのなら、僕が喜んで繋ぎ役をやりますよ。このあいだもCOLTSの岩川(浩二)さんから「間を繋ぐ世代がいない」という話を聞いて、ますますその役目が重要なんだと思いましたね。

──今後たとえば、ルーパーを駆使したベースの弾き語りでソロ楽曲を生演奏する形式もできそうだと思うのですが、いかがですか。

柳沼:ベース&ボーカルは以前試したことがあるんですけど、凄く難しいんです。比較するのもおこがましいけど、僕はスティングやポール・マッカートニーみたいにはなれない(笑)。あれだけよくできた曲を弾けて唄えるなんて神業ですよ。僕の大好きなラリー・グラハムもそうですが、弾けて唄えるベーシストは憧れではあるけど、そこまでのレベルにはとても到達できませんね。今回のようにまな板の鯉になって歌に徹するのが自分らしいスタイルなんだと思います。

──若い時期特有の自我も薄れて、年輪を重ねて他人に委ねられることで新しいものが生まれることもありますしね。

柳沼:そうなんですよ。いつもは自分で決めることが多いから、今回はお任せでスムーズに進める作業を体験したい気持ちもどこかにあったんだろうし。ライブやレコーディングでベースの種類や音色を決めるのは異常にこだわりますけど、ドラムやギターの選択に関しては波長が合えばそれでいいので。

──尊敬する橋本潤さんのレパートリーを受け継ぎ、世に知らしめることも柳沼さんに託された大事なミッションではないかと思うのですが。

柳沼:唄いたい歌はあるんですけど、ちゃんと許可を取らないといけなくて。LAZY LOU's BOOGIEという、テレビアニメ『YAWARA!』のエンディングテーマも出したことのあるバンドの曲なんですけど。あと、TH eROCKERSが解散した後に橋本さんがやっていたTHE BLACK-50にも凄く良い曲があって、それもやりたいんです。実は去年、BLACK-50のメンバーにベースを弾かせてほしいと直談判したんですよ。あいにくスケジュールが合わずに実現しなかったけど、この歳になると思い残すことがないように、やれることは全部やっておきたいんです。

──最後に、盟友である南野さんがこの『Thank you』を聴いたらどんな感想を言うと思いますか。

柳沼:信吾の墓にはCDを持っていってもらったんですけど、どうかなあ…きっと無言だと思いますよ。同じバンドマンとしてライバル心もあるだろうし、「バンドはファミリーです」と常々言っていた人だから、なぜバンドではなくソロなんだ?! という嫉妬に近い感情を抱くかもしれない。「僕らがいるじゃないですか! なぜ僕らじゃダメなんですか?!」みたいな感じでね。以前、僕が違うバンドのサポートでベースを弾いたデモを渡したときも無言だったし。おそらくJOEさんと同じく面と向かってではなく、陰ながら応援してくれるんじゃないかとは思いますけどね。

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