「巨根すぎる」ネズミでスイスの学術誌が炎上

(Alamy Stock Photo/Credit: Tero Vesalainen / Alamy Stock Photo)

無料のオンライン科学誌を発行するスイスの出版社フロンティアーズが、人工知能(AI)が生成した不正確な図画やスペルミスのある単語を含む科学論文を掲載したことで批判されている。 スイスの出版社フロンティアーズ(本社・ローザンヌ)が発行するオンライン無料学術誌「フロンティアーズ・イン・セル・アンド・デベロプメンタル・バイオロジー」に2月13日に掲載されたこの論文は、スペルの間違った単語やAIが生成したでたらめな画像を含んでいたことで世界中の研究者を驚愕させた。特に問題視されたのは、解剖学的にあり得ない巨大な生殖器を持ったネズミの図画。ソーシャルメディアで世界中を駆け巡り、フロンティアーズの査読プロセスに疑問を投げた。 フロンティアーズは3日後に論文を撤回。X(旧ツイッター)で誤りを発見してくれた科学者たちに感謝の意を表したうえで、研究データや論文を公開・共有する「オープンサイエンス」で誤った研究を集合的に精査することの重要性を強調した。 フロンティアーズは2007年の設立以来、論文の著者が掲載のためにお金を払う仕組みを採り、ネットで無料で読める「オープンアクセス」の科学誌を発行してきた。この「pay to publish」と呼ばれるビジネスモデルでは、著者が100~9000ドルの「論文処理料(article processing charges=APC)」を学術誌の出版社に支払い、論文のオープンアクセス化を図っている。 このモデルは、課金制や定期購読に基づく従来型学術誌と一線を画する。エルゼビア(オランダ)やシュプリンガー・ネイチャー(独・英)など大規模で権威ある科学出版社の多くが、税金を原資に科学的知見へのオープンアクセスを維持してきた。 世界の2大オープンアクセス出版社であるスイスのフロンティアーズとMDPI(本社・バーゼル)はいずれも「オープンサイエンス」を提唱し、迅速な査読・掲載プロセスを売り文句にしている。だがこうした手法により、APC収入を増やすために論文の質より量が追及されるのではないかという懸念が科学界に渦巻いている。 APCに基づく資金調達モデルに詳しいオタワ大学のステファニー・ハウスタイン教授は、公に懸念を表明した。「何かを急いで生み出そうとするためだけにどれだけの誤情報が公開に至ったかと考えると、これは氷山の一角にすぎないのではないか」と語った。 研究者の間では、出版社が査読プロセスにAIを用いたり論文著者がAIで図画・本文を作成したりすることで、科学が備えるべき規範が失われていくとの懸念が広がる。だがハウスタイン氏は、質の低い研究が発表される原因はAIそのものではなく、研究者や査読者に対し論文発表の量とスピードを求めるシステムにあるとみる。 「エセ科学」 フロンティアーズの広報はswissinfo.chの取材に対し、問題となった論文について「不幸にして例外的な事件」だったとメールで回答した。 だがフロンティアーズが科学的に問題のある論文を掲載して批判の矢面に立ったのはこれが初めてではない。2023年4月には、「マスクが新型コロナウイルス感染症の症状を引き起こす可能性がある」とする根拠を欠く論文を掲載した。科学者や公衆衛生関係者らの強い批判を受け、1カ月後に撤回された。 ヒト免疫不全ウイルス(HIV)とエイズの関係に疑問を投げる論文にも同じことが起こった。当初は論文を「意見」に分類し直すことで収拾を図ったが、掲載から4年以上経って撤回に追い込まれた。相次ぐ失態を受け、フロンティアーズの査読プロセスは「エセ科学」の発生を許すとして、科学者の間で論文投稿のボイコットを呼びかける動きさえ起こった。 「何がなんでも出版する」 フロンティアーズの広報はそれでも「出版業界で最も質の高い実績」があると自負する。大手科学出版社の中で3番目に引用数が多く、論文の閲覧数やダウンロード数は数十億回に達するという。 だがハウスタイン氏の見方では、フロンティアーズの起こした不始末が示すのは、「科学を進歩させるために知識を広げる」という無料出版の本来の目的がその基盤となるビジネスモデルによって台無しになっている実態だ。「実際には厳密な科学を出版することではなく、利益を上げ成長することが主な目標に据えられている」 その論拠としてハウスタイン氏が挙げるのは、フロンティアーズが論文の著者に請求するAPCは平均2270ドル(約33万7千円)で、リジェクト(不採用)する動機を欠くことだ。同社のリジェクト率は48%と、エルゼビアの71%など同業他社を大きく下回る。査読期間も短く、同社サイトによると投稿から採用可否の最終決定までの平均日数はわずか61日間。他の学術誌の平均は3~6カ月だ。 オープンアクセスの出版社が指名した著者の論文を掲載する「特別号」の発行頻度が増え、論文総数の大半を占めているという分析もある。「以前は『特別号』は非常にまれで名誉ある存在だったが、今ではフロンティアーズやMDPIが成長モデルとして活用している」(ハウスタイン氏) スイスの国立科学財団(SNSF)はこうした事態を踏まえ、今年2月から「特別号」に掲載された研究を助成制度の対象から外すと発表した。財団広報はswissinfo.chに対し「『何がなんでも出版する』という原則は、SNSFの方針に矛盾する」とメールで説明した。 研究者と査読者へのプレッシャー 自由に発表・閲覧できる研究が増えたことで、出版される科学論文の数は過去10年間で爆発的に増えた。だが科学者の数はそれほど増えていない。その結果、科学者はかつてない速さで論文を執筆・査読・編集することが期待されるようになり、その多くは無償だ。研究者はキャリアを積むために業務量の増加に対応せざるを得ない一方、科学出版社の利ざやは膨らんでいく。 フロンティアーズの元編集者でケンブリッジ大学の免疫学者エイドリアン・リストン氏は、同社が規模を追求するあまりに編集プロセスに対する統制を失ったと指摘する。論文のリジェクトは事実上不可能であり、一刻も早く出版費用を稼ぐために査読者を無視する編集者さえいることに気づいたリストン氏は、会社を辞めた。 リストン氏はこうした内情を踏まえると、問題の論文でたとえ著者がAI使用を明言していたとしても、この論文が掲載に至った可能性があるとみる。 生成AIとの闘い AIの悪用はオープンアクセス出版に限った問題ではない。生成AIが文章を書いたり画像を描いたりできるようになった今、出版社や研究者の近道をとり不正行為に手を染めることがさらに容易になるのではないかとの懸念が出ている。査読プロセスに携わる人間が技術の進化についていけなくなることも少なくない。 AIの生成された偽データ・画像は極めて精巧で、専門家でも判別は難しい。微生物学者で研究不正に詳しいエリザベス・ビク氏は「私の専門知識や複製検出ソフトを使っても、画像やデータが本物か偽物かはもはや断定できなくなった」と話す。昨年撤回された論文は1万件と、状況は深刻だ。 学術出版社は科学論文でのAI使用を禁止・制限するなど対策を講じている。フロンティアーズは原稿の執筆に生成AIを使うことは許容範囲とするが、著者が正確性を精査し、AIを使ったと明言するよう求めている。 フロンティアーズがほかの出版社と同様、編集作業にAIを使っているのは「研究者による詐欺や不正行為を検出する人間の能力を支援・改善・向上させるため」とメールで回答。科学論文で技術の悪用を防ぎたい出版社をAIが支援する方法の1つだという。 だがフロンティアーズが偽のAI画像の掲載を許してしまったように、誤った科学が摘発される保証はない。この問題の解決策を求める「研究評価に関するサンフランシスコ宣言」(通称DORA協定)には、2万5千人近い科学者が署名した。宣言は、論文の量や掲載誌の名前で研究者を評価するのをやめ、研究自体のメリットに基づいて評価するべきだと訴えている。 編集:Veronica DeVore、英語からの翻訳:ムートゥ朋子、校正:宇田薫 ※SWI swissinfo.chでは配信した記事を定期的にメールでお届けするニュースレターを発行しています。政治・経済・文化などの分野別や、「今週のトップ記事」のまとめなど、ご関心に応じてご購読いただけます。登録(無料)はこちらから。

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