【ルイス・フロイスが明かす真実】 なぜ秀吉は朝鮮に出兵したのか? 〜信長の明征服計画

画像 : 豊臣秀吉坐像(狩野随川作)public domain

豊臣秀吉の朝鮮出兵は、日本史における最大の謎とされてきました。

なぜ秀吉は大陸の中華帝国・を征服しようなどという、壮大な計画を立てたのでしょうか。

宣教師ルイス・フロイスの記録によると、秀吉よりも以前に明征服を目論んでいた人物がいたそうです。

それは織田信長です。彼もまた中国征服計画を抱いていたとされています。

果たしてこの話は本当なのでしょうか。もし事実だとすれば、信長のアイデアはどこから来たのでしょうか。

当時、日本で布教活動を行っていたカトリック修道会はイエズス会だけではありませんでした。スペイン王室の庇護を受け、フィリピンを拠点に活動していたフランシスコ会もまた、日本進出の野望を抱いていたのです。

布教をめぐる両修道会の対立は、サン・フェリペ号事件という悲劇的な事件を生むことになります。

今回の記事では、イエズス会とフランシスコ会の確執、そして秀吉の朝鮮出兵の真相に秘められた信長の明征服計画について、詳しく解説していきたいと思います。

目次

日本で布教活動していたのはイエズス会だけではない

フランシスコ会は、13世紀にイタリアで聖フランチェスコによって創設された托鉢修道会です。

カトリック修道会の中では「老舗」とされ、スペイン王室の庇護を受けていました。

一方、16世紀に創設されたイエズス会は、ポルトガル王室の支援を得て布教活動を展開していました。

画像:フランシスコ会の創設者であるアッシジのフランチェスコ public domain

スペインとポルトガルは、新大陸の発見を機に世界分割を行い、それぞれの勢力圏で布教活動を進めました。

スペインは中南米や太平洋上のフィリピンに進出し、フランシスコ会はこれらの地域で布教を担当。18世紀には、フランシスコ会士がカリフォルニアに到達し、伝道所を開きました。

これがサンフランシスコ市の起源となったのです。

その一方、ポルトガルの勢力圏であるアフリカ、インド、東南アジアでは、イエズス会が布教活動を独占していました。日本へのキリスト教伝来も、イエズス会のフランシスコ・ザビエルによるものでした。

ところが1587年、豊臣秀吉がバテレン追放令を発布したことで、状況は一変します。イエズス会の宣教師たちは日本からの撤退を余儀なくされました。
そして、フィリピンのフランシスコ会宣教師たちは、これをチャンスと捉えたのです。

当時、フィリピンとメキシコ(アカプルコ)を結ぶガレオン貿易が盛んに行われており、フランシスコ会士たちもこの航路を利用していました。

1593年、ペドロ・バプティスタ神父らは、スペイン総督の許可を得て、マニラを出発。外交交渉を名目に日本へ渡りますが、実際には京都や大坂で布教活動を開始したのです。

1596年、マニラからメキシコへ向かうスペイン船サン・フェリペ号が、日本近海で遭難し、土佐に漂着しました。
土佐の長宗我部元親は乗組員を拘束し、秀吉の家臣・増田長盛が尋問にあたりました。

この尋問において、水先案内人のフランシスコ・デ・オランディアが「スペイン王は宣教師を送り込んで布教とともに征服を進める」と発言したとされています。

これを知った秀吉は、京都・大坂に潜伏中のフランシスコ会宣教師と日本人信徒、合わせて26人を捕らえ、長崎で処刑しました。

これが「二六聖人の殉教」と呼ばれる事件です。

画像:サン・フェリペ号事件によって、長崎で処刑されたフランシスコ会の宣教師と信者 public domain

ただしオランディアの証言は、イエズス会が組織した調査委員会の記録にしか残っていません。

当時、日本布教を独占していたイエズス会は、ライバルのフランシスコ会の進出を快く思っていませんでした。またキリスト教国の野心を警戒する秀吉にとっても、フランシスコ会弾圧の口実となりました。

そのためイエズス会と秀吉が結託して、フランシスコ会をはめた可能性が指摘されています。

サン・フェリペ号事件は、日本での布教をめぐる宗派間の対立と、キリスト教に対する為政者の警戒心が絡み合った複雑な事件だったのです。

秀吉の朝鮮出兵は信長のアイデア?

豊臣秀吉が行った朝鮮出兵の真の目的は、明王朝の征服にありました。

しかしながら、なぜ秀吉がこのような壮大な計画を立てたのか、その理由については謎が多く残されています。

画像 : 『朝鮮征伐大評定ノ図』(月岡芳年作)public domain

ただし、秀吉よりも以前に中国征服のプランを持っていた人物がいたと考えれば、秀吉の意図が少し理解できるかもしれません。

宣教師ルイス・フロイスの記録によると、織田信長は明征服計画を持っていたといいます。

信長が毛利を平定して日本の絶対君主となった暁には、一大艦隊を編成して明を武力で征服し、その土地を自らの子息たちに分け与える考えであった

このようにフロイスは述べています。ただしフロイスの証言は日本側の史料には見当たらず、確認することはできません。

もし信長が明征服を本当に計画していたとすれば、そのアイディアの出所はどこなのでしょうか。近畿地方を統一したばかりの信長自身が思いついたのか。それとも、誰かが入れ知恵をしたのでしょうか。

前述のように、イエズス会はスペイン王に対し、布教の妨げとなる明への軍事行動を進言していました。
安土城で信長に謁見したイエズス会巡察使ヴァリニャーノが、この計画を示唆した可能性も考えられます。

もしそうだとすれば、秀吉の朝鮮出兵は、信長時代から構想されていた明征服計画を実行に移したものだったのかもしれません。

信長の死後、その意思を継いだ秀吉が、タイミングを見計らって行動に出たと解釈することもできます。

秀吉による明征服計画の背景には、信長時代からイエズス会の働きかけがあった可能性があります。

秀吉の朝鮮出兵は、単なる秀吉個人の野望ではなく、信長から秀吉へと受け継がれた、より大きな歴史の流れの中で捉えるべき事件なのかもしれません。

参考文献:茂木誠(2018)『世界史とつなげて学べ 超日本史 日本人を覚醒させる教科書が教えない歴史』KADOKAWA

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