ジョン・シナの魅力爆発 コメディだけではない『俺らのマブダチ リッキー・スタニッキー』

先日の第96回アカデミー賞に、前代未聞といえる全裸のような姿で、衣装デザイン賞のプレゼンターとして登場した、人気俳優ジョン・シナ。このパフォーマンスは、1974年度の会場に全裸男が乱入した、ショッキングな事件のパロディだったが、裸のままで「衣装はとても大切です」と述べたシナのスピーチは、会場を笑いの渦に巻き込むこととなった。それはプロレス選手として鍛え上げたマッチョな肉体と、持ち前の豪快なユーモアが活かされた一場面だった。

そんなジョン・シナのコメディ俳優としての魅力が存分に発揮されているのが、配信が始まった『俺らのマブダチ リッキー・スタニッキー』だ。監督は、『グリーンブック』(2018年)で、アカデミー賞作品賞に輝いたピーター・ファレリー。

『グリーンブック』は、これまで過激なコメディ映画を多く撮ってきた彼が、シリアスな要素や社会的なテーマを作品に強く反映させたことが話題となった、新境地の作品だった。続いて監督した『史上最高のカンパイ! ~戦地にビールを届けた男~』(2022年)も、コメディながら戦争の実話という深刻な題材を選ぶことで、前作の手法を踏襲したといえる。

しかし、本作『俺らのマブダチ リッキー・スタニッキー』は、いかにも本来のピーター・ファレリー監督らしい、くだらなさが前面に出た、“お下劣コメディ映画”への帰還となった。そこに、とくに近年人気が上昇しているジョン・シナが、圧倒的なほどにうまくマッチングしているのである。ここでは、そんな本作が描いたものが、じつはコメディの連続だけではないということを解説していきたい。

物語は、3人の少年ディーン、JT、ウェスのイタズラがきっかけで警察が出動する事態に発展してしまうところから始まる。3人は責任を回避するために、その場で“リッキー・スタニッキー”という架空の存在を作り上げ、トラブルの全てを彼になすりつけることに成功する。それからというもの、ことあるごとに少年たちは自分の都合の悪い事柄について、存在しないリッキー・スタニッキーの責任にするという誤魔化しを多用するようになる。

20年後、そんな少年たちも成長し、いい歳の大人になった。ディーン(ザック・エフロン)、ウェス(ジャーメイン・ファウラー)、JT(アンドリュー・サンティーノ)の3人は親友のままだ。しかし彼らは呆れたことに、いまだにリッキー・スタニッキーの名を借り、それぞれの妻や親、恋人への言い訳など、さまざまなケースで責任を回避するために利用されていた。

しかし、この3人は窮地に陥ることとなる。いつものようにリッキー・スタニッキーの名をダシにして、男3人だけで秘密の遠出やライブを楽しんでいると、ウェスの妻が産気づいたという連絡がくる。急いで産科に駆けつけたが、子どもはすでに生まれた後だった。「どこに行ってたの?」の問いに対して、やはりリッキー・スタニッキーのせいだとする3人の説明には矛盾が見つかり、周囲から疑われ始める。しまいには、ついにリッキー・スタニッキーを、生後8日のユダヤ人の新生児がおこなうという風習のある「割礼パーティー」に呼ばなければならなくなってしまうのだ。

そんなときにディーンが思い出したのが、アトランティックシティで出会った、飲んだくれのモノマネ芸人の存在だ。ジョン・シナが演じる彼の名は、ロック・ハード・ロッド。ロックは有名なシンガーたちの扮装をして、マスターベーションをテーマにした、ヒット曲の替え歌ステージで披露していくという、見下げ果てたネタにより日々の暮らしを繋いでいた。そんな彼を、リッキー・スタニッキーの偽物に仕立て上げようとするのである。

一か八かの作戦だったが、ロックは驚くほど役作りを徹底し、リッキー・スタニッキーという、さまざまなイメージを持つパーソナリティを完璧に演じることに成功する。しかし、少々やり過ぎてしまったようだ。ロックが演じたニッキーが魅力的な人物であったために、人々に気に入られ過ぎてしまい、ディーンが勤める企業に就職するなど、3人の実生活にロックことニッキーが食い込み始めてきたのである。

面白いのは、ジョン・シナ演じるロックがニッキーを演じる過程で、虚像だったはずの存在が本物らしくなってくるという点だ。ニッキーという新たな自分を発見したロックは、自分の役に固執し始めることになる。それは、「メソッド演技」と呼ばれる、演じるキャラクターそのものになりきることで迫真の演技を体得するというやり方にも似ている。

同時にそれは、あるポストを与えられることで、人間そのものが変化するという傾向を示してもいるのではないか。サイレント期の巨匠F・W・ムルナウ監督は、『最後の人』(1924年)という映画作品で、高級ホテルの顔であるドアマンであることに誇りを持っている主人公が、年をとり過ぎたという理由で、立派な制服を奪われて裏方の仕事に回されるという展開を描いている。自信に満ち溢れていた主人公は途端に元気がなくなり、失意のなかで弱っていく一方だ。

『最後の人』の主人公の天職が高級ホテルのドアマンだったように、ロック・ハード・ロッドの天職はリッキー・スタニッキーだったのだろう。ロックはリッキーになりきることで、自分の能力を十分に発揮できる機会を与えられたのだ。

この段階になって、本作は社会的なテーマを獲得していく。それは、多くの人が自分に相応しいポストを得ていないことで、なかなか能力を発揮できない状況にあるということだ。人は環境の違いによって、誰よりも輝ける存在になれるし、軽蔑されるような飲んだくれにもなってしまうのである。

芸能界やアスリートのように、成功の夢を持った人々が、セカンドキャリアに失敗したことで、生活が荒れるなど、厳しい状態に追い込まれることは少なくない。やぶれかぶれになって犯罪に走る人が増えていけば、社会もまたダメージを受けていく。多くの人が幸せに生きられる環境づくりや、お互いがお互いをリスペクトし、新たな挑戦やセカンドキャリアを応援し合う社会を作ることができれば、この世の中はもっと良い場所になっていくのではないか。

本作『俺らのマブダチ リッキー・スタニッキー』は、コメディ描写の連続とともに理想のリッキーへとなっていくロックの姿を通すことで、多くの人にチャンスを与える寛容な精神をこそ、いまの社会には必要だというメッセージに到達していると考えられるのだ。そして、魅力に溢れるジョン・シナだからこそ、輝く存在の象徴となる人物リッキー・スタニッキーになりきることができたと感じられるのである。
(文=小野寺系(k.onodera))

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