『さよならマエストロ』タイトルに込められた真意 西島秀俊が奏でた家族の旅立ちと希望

『さよならマエストロ~父と私のアパッシオナート~』(TBS系)最終話では、タイトルを回収し、それぞれの旅立ちを祝福した。

離ればなれになった年月を経て、未来へと踏み出した俊平(西島秀俊)と響(芦田愛菜)。エプロン姿の父と一緒に厨房に立つ姿が、響の変化を示していた。俊平は志帆(石田ゆり子)のアトリエを訪れる。離婚届を携えた俊平は、志帆と出会った日のことを話し始めた。ドビュッシー作曲「海」のイメージが湧かなかったとき、志帆の歌を聴いてインスピレーションを受けた。しかし、夫婦になってからは夫は妻にマネージャーの役割を押し付けていた。

父と娘のドラマである『さよならマエストロ』は、裏を返せば母、そして妻の物語でもある。俊平と響の主旋律に寄り添うように、志帆が紡ぐ副旋律が鳴っていたように思う。自活能力のない夫と世話焼きでよく気が付く妻という相関図に本作は疑問符を投げかけた。音楽と絵画が異なる表現形式であるように、夫婦といっても互いに別の人間である。パンケーキを焦がしていた俊平が、楽団のメンバーからレシピを教わり、自ら厨房に立つプロセスは夫が自立する過程であり、家族の旅立ちの予行演習でもあった。

さまざまなことが本来あるべき場所に落ち着いて、その後に残ったのは音楽だった。仙台で開催されるオケフェスに向けて晴見フィルは練習を重ねる。コンサートマスターで建設会社社長の近藤(津田寛治)は練習場所の提供を申し出た。バラバラだったオーケストラが自発的に動く集団へと生まれ変わったことは、奏でる音に表れている。俊平が「ボッカ・ルーポ(オオカミの口へ飛び込め)!」と情熱的に呼びかける中で、一人ひとりの可能性を引き出したことはご覧の通りだ。

富士山を間近に仰ぐ情景。澄んだ朝の空気の中、茶畑でトランペットを吹く大輝(宮沢氷魚)。再会と旅立ちを描く『さよならマエストロ』は、反復するモチーフを用いることによって続いていく日常を演出する。前話で鏑木(満島真之介)にかかってきた着信はドイツからだった。恩師シュナイダー(マンフレッド・W)が倒れて、集中治療室に搬送されたのだ。ノイエシュタット交響楽団の常任指揮者を託したい、というシュナイダーの願いを俊平は固辞した。

俊平が晴見フィルを選んだことを、楽団員たちは複雑な心境で受け止める。世界で活躍する俊平を引き留めていいのか、俊平の決断を尊重すべきなど率直な思いを打ち明けた。晴見フィルのメンバーは俊平を家族同然に慕っていて、いなくなってほしくないと思う反面、俊平の活躍を待ち望んでいる。どちらも偽りない本心だ。響の言葉はそんなメンバーの気持ちをすくい上げるもので、楽団員も音楽でつながった“家族”だから、俊平への感謝を深い部分で共有できたのだと思う。

音楽との出会い、そして別れは思いがけず訪れる。晴見フィルのメンバーが俊平と出会ったこと。俊平がシュナイダーと出会い、クラシックの世界に足を踏み入れたこと。それらは偶然にすぎないが、人生を変える出会いだった。シューマン作曲・交響曲第3番「ライン」に寄せる心情を俊平は「希望」であると語る。生きていればさまざまなことを経験するが、どんな日も太陽は昇る。運命が扉を叩く夜でも。

指揮者とオーケストラは何によってつながっているのか。楽譜をベースにした共有したサイン、練習を重ねて培われた呼吸、表情や息遣いの変化、それらの根底にある音楽への情熱。俊平と晴見フィルのアンサンブルの深化は、最後のステージから伝わってきた。大げさな仕掛けを用いなくても、丁寧に編まれた各話のエピソードと役者の感情の積み重ねが、魂の奥底に響く感動を生み出すことを『さよならマエストロ』は証明した。

(文=石河コウヘイ)

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