「『お前、無理だよ』って。陰口を叩かれた時もあったはず」中村憲剛が語る“歩み続ける重要性と最大の挫折”「はらわたが煮え繰り返るって…」

フットボーラー=仕事という観点から、選手の本音を聞き出す企画だ。子どもたちの憧れであるプロフットボーラーは、実は不安定で過酷な職業でもあり、そうした側面から見えてくる現実も伝えたい。今回は【職業:プロフットボーラー】中村憲剛編のパート6、最終回だ。

——————◆—————◆——————

パート5まで読んでくれた方なら理解していただけるはずだが、憲剛さんのような生き方を真似できるフットボーラーはそういないだろう。だから正直に「今回の取材、他の選手にとって参考になりません(笑)」と告げると、本人は笑いながらこう返してくれた。

「白鳥さん、だからいいんじゃないですか(笑)。この中から何かエッセンスを掴んでもらえれば、それでいいんです」

つまり、情報のシャワーを浴びせると言うことか。ちなみに、憲剛さんは「僕はそもそもエリートではないので。だから、エリートが読んでも参考にならないです。育成年代にもっと折れておけばいいという人が続出するだけなので(笑)」と付け加えている。あくまで個人的な解釈だが、そこには、挫折を経験しないままプロで活躍できたらそれに越したことはないとのメッセージが込められている気がした。

憲剛さんは改めて、過去の挫折を振り返る。

「2位が8回って結構ですよ。文字にすると、7、8文字ですけど、そこには15年の悔しさが溜まりに溜まっているので」

それでも、キャリアの晩年に光を掴む。

「ベタですが、『続けること』『諦めないこと』が大事なのかなと。可能性は一人ひとりにあります。その可能性を広げるのは自分自身なんです。他人じゃないんですよ。誰かに何かを言われてショックを受けて歩みを止めるのは自分じゃないですか。いつだって、自分なんです。だから諦めずに歩みを続ければ、きっと人生の花が咲くと僕は信じています」

僕の人生を見てくださいと、そんなアピールをされているようだ。

「中1の頃の中村憲剛がプロになるなんて無謀だと、あの輝かしい舞台にたどり着くのは難しいと。周りからはそう思われていたかもしれませんが、僕自身はあそこにあるなら、とりあえず歩いてみるかと。歩みを続けていく過程で諦めるチームメイトがいて、僕も言われるわけです。『お前、無理だよ』って。陰口を叩かれた時もあったはずです。『憲剛さん、プロを諦めてないよ』『えっ、マジで』みたいな感じで。でも、やり切った先に何かがあると信じてやっていました」

その熱い言葉にしばらく耳を傾ける。

「僕の場合、諦めずに一生懸命歩いていたら、周りが動いてくれたんです。(中央大の)佐藤(健)さん(現・中央大サッカー部の総監督)が(当時川崎フロンターレのチーム管理部長だった)庄子(春男)さんとつながっていて、『フロンターレに行って来い』って言ってくれたし、それも自分が歩みを続けていたからこそ巡ってきたチャンスでした」

歩みを続ける。これは予想以上にしんどい作業だ。実際、憲剛さんも「その過程でたくさん挫折しました」という。憲剛さんの場合、ボールではなく挫折が友だちと表現したほうがしっくりくるだろうか。そんなことを考えていると、憲剛さんは「今でも思い出しますけど、風間(八宏)さんが監督の時、1回干されかけたんです」と、改めて挫折の思い出を語り出した。

「2015年、夏に入る前ですかね。急にメンバーから外されて、『走って来い』みたいな。『お前、全然走れてないから』って。そう言われて、『はあ?』ってなりましたよ。レギュラー組から突然外れて1人だけ2部練する日もありました」

調べてみると、メンバー外になったのは5月10日の名古屋グランパス戦(11節)。12節から3試合続けてフル出場するも、15節の湘南ベルマーレ戦から3戦続けて途中出場している。

「14年のシーズンが終わる前に足首を手術した影響で、(15年の)プレシーズンにフルで参加できなかったんです。身体ができていない状態でシーズンに突っ込んでいって、案の定途中でへばって、風間さんに指摘されました。風間さんはそういうのを見逃さないので。ただ、あの時は(キャリアの中で)一番腹が立ったかもしれません」

チームの先頭で引っ張ってきた自負があるからこそ、外された時のショックは大きい。

「日本代表で出られない時はたくさんありましたが、クラブで怪我や理由がついた状態以外でメンバーから外されたのは初めてでした。等々力で自分を表現できないわけです。ブチギレでしたね。それからその期間は練習で、Aチームの選手たちに向かってかなり激しく行ってました。荒れてました」

その時期を憲剛さんは「風間さんとの戦い」と表現する。

「戻ってこなければ、いる選手で戦うよって。風間さんはそういう人だから、僕も必死で。結局そのあとまたレギュラーを奪い返したんですが、秋口くらいにボソッと風間さんに『なあ、言ったとおりだろ。走ってよかっただろ』って言われて。『クソっ』と思いながらも『そうだよなあ』と(笑)。あの時が一番悔しかったです。後出しですけど、あの時期が最大の挫折だと思います。はらわたが煮え繰り返るってこういうことかと」

その言葉からも当時の悔しさはひしひしと伝わってくる。

「フロンターレでは2004年から基本的にずっと試合に出ていて。14年の最後に怪我で離脱したくらいで。それまで順風満帆になってきた中で、初めて権利を取り上げられちゃったみたいになって。もうね、恐怖でしたよ。34歳でそうなって。でも、自分にとって、その1か月間は次の年にJリーグMVPを獲るまでの燃料になりました」

【画像】セルジオ越後、小野伸二、大久保嘉人、中村憲剛ら28名が厳選した「J歴代ベスト11」を一挙公開!

諦めず、どんな困難にも立ち向かっていけば、自ずと希望は見えてくる。誰あろう、中村憲剛の人生がそれを証明している。現役引退後も、様々なプレッシャーを受けながらも憲剛さんは歩みを続けている。その思考回路を使って。

「セカンドキャリアでどう上がって行くかみたいなものは現役時代と思考回路は変わらないです。この3年間、自分のテリトリー以外の分野でも勉強させてもらった選択は間違いじゃなかったと思います。シュンさん(中村俊輔)、ヤットさん(遠藤保仁)みたいに引退してすぐコーチになることも考えましたが、自分は世間知らずな部分があったので、1回外に出てみようと。幅を広げて、僕自身を成長させないといけない。そういう想いが強かったので。と同時に(監督の)ライセンスも取得しないといけなかったし、まあ、大変と同時に楽しい3年間でした」

引退後のキャリアプランはここまで「随分と上手くいっている」そうだ。「現役時代の頑張り」がその背景にはあるという。

「周りからの信頼もそうだし、思考の部分もそうだし、自分をどう成長させるかは結局、(現役時代の)延長線上にある。プロフットボーラーだったことが今に活きているんです」

約束の取材時間、1時間はすでに超えている。でも、憲剛さんの話は止まらない。

「いやあ、深いですね。このテーマ(職業:プロフットボーラー)、面白いです」

ストップをかけなければ、24時間話し続けるのではないだろうか。冗談はさて置き、今回の取材を経て、こう思った。憲剛さんは43歳になっても、生粋のサッカー小僧なんだと。

<了>

取材・文●白鳥和洋(サッカーダイジェストTV編集長)

<プロフィール>
中村憲剛(なかむら・けんご)
1980年10月31日生まれ、東京都出身。川崎フロンターレ一筋を貫いたワンクラブマンで、2020年限りで現役を引退。川崎でリレーションズ・オーガナイザー(FRO)、JFAロールモデルコーチなどを務め、コメンテーターとしても活躍中だ。

© 日本スポーツ企画出版社