国内患者は300人の超希少疾患「採算取れない薬」の開発を実現させた患者の思い 診断から20年、「遠位型ミオパチー」の治療薬が世界で初めて承認

指定難病「遠位型ミオパチー」の患者会代表の織田友理子さん=2023年8月、厚労省

 手足など体の末端の筋力がだんだん落ちてくる難病「遠位型ミオパチー」。織田友理子さん(43)は22歳の学生のころ、筋疾患の中でも患者数が極めて少ないタイプと診断された。国内推計患者は300人ほど。研究の進展で原因も分かってきたが、薬を販売しても採算を取るのが難しく、開発する製薬会社が見つからなかった。

 友理子さんらは「次世代に治療という希望を残したい」と患者会を設立し薬開発の必要性を訴え続けてきた。今年2月29日に薬承認の可否を議論する国の専門部会は治療薬「アセノベル」の〝承認を可とする〟という結論を出し、3月26日、世界で初めて承認された。診断を受けてから約20年。車いすで生活する友理子さんは、「この日を待ち続けました」と言葉を詰まらせた。(共同通信=村川実由紀)

 ▽研究成果で暗闇に光
 遠位型ミオパチーは、体幹から遠い手足などの筋力が徐々に低下する病気。友理子さんが発症したのは、その中でも足首の動きに関わる筋肉の症状が出やすい「縁取り空胞型」と呼ばれる。20~30代で発症することが多く、個人差はあるが、初期にはつまずく、歩くスピードが遅い、歩き方がおかしいといった症状が出てくる。10年ぐらいで歩けなくなり、車いす生活となる人が多い。1981年に国立精神・神経医療研究センターの研究者が最初に患者を報告した。

 薬開発のきっかけとなったのは、研究センターの西野一三部長率いるチームの成果だった。

 2001年、海外の研究チームが症状が似ている病気の原因を報告した。GNEという遺伝子に異常があったという。その後、この海外のチームが報告した病気と、縁取り空胞を伴う遠位型ミオパチーは同じだと分かった。

 GNEはシアル酸を作るのに関わる遺伝子。西野部長たちのチームは「シアル酸が足りなくなっているのかもしれない」と疑った。調べてみると患者の細胞ではシアル酸が必要となる機能が落ちていた。試行錯誤を重ね、シアル酸を飲ませて発症を防ぐ方法を見いだした。

国立精神・神経医療研究センターの西野一三部長(本人提供)

 2009年、この治療法をマウスで試した結果、筋力の低下などを抑えることができたと論文で発表。西野部長は「世界的に競争になっていたのですが、結果を出せたのは僕らだけ。すごくラッキーでした」と話す。

 暗闇に光が当たった。ただそこからの道は険しかった。患者数が少なく開発を引き受けてくれる企業がなかなか見つからなかった。

正常な筋肉(左)と「縁取り空胞型」遠位型ミオパチーの患者の筋肉の顕微鏡写真(西野一三部長提供)

 ▽米ベンチャー企業の撤退
 友理子さんは遠位型ミオパチー患者会の「PADM」を2008年に設立し、開発実現に向けて企業や行政などに直接訴えてきた。署名活動も実施し、200万人分にも達した。

 友理子さんたちの熱意を受けて製薬会社ノーベルファーマ(東京)が「公的助成が得られるのなら」と協力を名乗り出た。複数の省庁などから資金面で助成を受けられることが決まり、東北大が中心になって医師主導治験が2010年に始まった。その後、米ベンチャー企業も参入し、海外での治験も始まった。

厚生労働省に署名を提出する患者会のメンバー=2014年6月26日、厚労省(織田さん提供)

 しかし海外での治験は期待した結果が得られずに米ベンチャー企業が撤退。再び大きな危機が訪れた。治験に関わった東北大学の青木正志教授(神経内科)は「開発断念の危機を迎え一時はダメかと思った」と振り返る。

東北大の青木正志教授(本人提供)

 それでもなんとか国内の開発は続けられ、治験では期待した効果が示された。昨年7月、ノーベルファーマは国に製造販売承認を申請。今年の2月末に国の専門部会が承認を了承。3月には正式に承認され、販売が開始されれば世界で初めて薬が登場することになる。

 青木教授は「他の希少疾患のモデルケースになる」と評価する。精神・神経医療研究センターの西野部長は「この治療薬開発の最大の貢献者は患者さんたちだと思います」とたたえた上で「ただしシアル酸を補っても進行した症状を元に戻すことはできない。まだこの病気の治療としては最初の一歩でしかありません」と話した。

指定難病「遠位型ミオパチー」の治療薬について審議した厚労省の専門部会=2月29日

 ▽生きてきた価値
 友理子さんは、夫の洋一さん(43)と交際中だった学生時代に診断を受けた。別れを切り出したこともあったが、洋一さんはそばに居続けることを選んでくれた。育児などの日々の生活に加え、患者会の設立やその後の活動も夫のサポートを受けてきた。洋一さんについて「一緒に歩んでくれた欠かせない存在です」と話す。

 友理子さんはもう病気が進行してしまっていて、新しい薬を使っても効果は得られにくいと思っている。それでも「これから病気になってしまう人の助けになれたら―」と患者会の活動を続けてきた。発症したばかりのころ、治療法がなくてつらかった。「そんな経験を次の世代の人にさせたくない」

織田友理子さん(右)と洋一さん=2023年12月10日、東京都(織田さん提供)

 好きな歌は福山雅治さんの「生きてる生きてく」。「この曲を聞くと自分の行動で少しでも後世の人に喜んでもらえるなら生きてきた価値があったのかなと思える」と話す。

 患者会で一緒に歩んできた仲間の中には亡くなってしまった人もいる。故人をしのび、「みなさんのおかげでこの長い年月、前を向き続けることができました」と感謝の気持ちを語った。

© 一般社団法人共同通信社