「ここで死ぬつもりやった」京都・ウトロ、苦難刻む町並み消える 100年住むはずの家解体へ

放火現場(2023年5月10日、宇治市伊勢田町ウトロ)

 放火事件の現場は、まだかすかに炭のにおいがした。炎に巻かれ、焼け焦げた柱や梁(はり)。高熱でぐにゃりと曲がった鉄骨。屋根は抜け落ち、青空が見通せる。家屋の残骸が堆積した地面からは雑草が生い茂り、京都府警の黄色い規制線が片隅に残されていた。

 2021年8月、男が集落に火を付けた。民家など計7棟を全半焼させ、法廷で「韓国人に対する嫌悪感や敵対感情がある」と供述した。差別の刃をむき出しにした「ヘイトクライム」だった。その爪痕は近々、取り払われる。

 京都駅から近鉄電車で20分余り。伊勢田駅で下車して西へ600メートル歩くと、京都府宇治市伊勢田町のウトロ地区に行き着く。

 集落は東西約300メートル、約2.1ヘクタールに広がる。第2次世界大戦中、国策による軍用の「京都飛行場」建設に従事した在日コリアンやその子孫らが暮らしてきた。いわば、戦争が生み出したまちだ。

 戦後長らく、生活インフラの整備から置き去りにされた劣悪な住環境に加え、1980年代後半からは立ち退き問題が浮上し、住民たちは強制的にわが家を追われる危機にひんした。住民たちは「戦後補償」を訴え、「不法占拠」とみなされても、国内外に「居住の権利」を訴えた。その一方、排外主義の標的にもされた。

 そして今。住民たちが守り抜いた「ふるさと」の町並みは、間もなく姿を消す。

 2012年の行政調査によると、ウトロには60世帯、158人が暮らしていた。安住の地となる市営住宅の2期棟が今年3月、集落の一画に完成した。住民たちは入居と引き換えに、住み慣れた家を明け渡す。

 5月末、引っ越しがほぼ完了した。残された家々の解体工事は6月に始まる。往時の町並みは、年内に全て更地になる見通しだ。

 かろうじて残る原風景がなくなってしまう前に、現場を歩いた。歴史の痕跡と人々の記憶を確かめるために-。

 「これがウトロの始まりです」

 平和祈念館の副館長、金秀煥(キム・スファン)さん(47)は集落の西端に唯一現存する飯場跡を指さした。

 木造平屋建ての廃虚だった。間口約10メートル、奥行き約5メートルの部分が残る。骨組みの上に、トタンや杉皮、コールタールをミルフィーユ状に重ねた簡素な屋根が乗っていた。

 側壁は朽ち果てて崩れ落ち、室内に差し込んだ陽光が暮らしの痕跡を照らし出す。裸電球がぶら下がり、プラスチック製のたらいや手押し車が姿をとどめていた。

 飯場ができ始めたのは1943年ごろとされる。土砂を採掘した末にできたくぼ地に、基礎もないこうした仮設の作業員宿舎がずらりと並び、集落を形成したのが戦時中のウトロだった。

 飛行場建設に従事した朝鮮人労働者には1世帯につき、6畳の板間と土間一つの1区画があてがわれた。家族が何人いようが関係ない。トイレは屋外で共同。風呂はない。

 現在、東側で隣り合う西宇治中とは高低差が5メートルほどあり、南側の陸上自衛隊大久保駐屯とは金網のフェンスで仕切られている。

 まとまった雨が降ると、集落へ周囲の水が流れ込んだ。水路の排水能力は乏しく、あふれ出た雨水があちこちにたまる。近年まで家屋浸水が頻繁に発生した。下水道は敷設されておらず、くみ取り式の便槽に水が入り込んでしまうと、内容物が辺りに流れ出ることもあった。

 金さんは、戦時中からウトロに暮らした在日コリアン1世たちが、そろって口にした苦労談を教えてくれた。

 強風が吹けば飯場の屋根はすぐに剥がれた。雨漏りがひどく、赤ちゃんにしずくがかからないように、狭い部屋の中をあちこち移動させて寝かせた-。

 「日本人と同じように、瓦の屋根で親を住まわせてあげたい。それが強い思いやったんです」。金さんが言葉を続けた。

 そんな「瓦屋根の家」を訪ねてみた。

 迎えてくれたのは、韓金鳳(ハン・グムボン)さん(84)。ウトロ町内会長を四半世紀務め、土地問題の解決に尽力した金教一(キム・キョイル)さん(2016年没)の妻だ。5月末に市営住宅への引っ越しが控えていた。

 飛行場建設に携わった父を幼くして亡くした教一さんと23歳で結婚し、ウトロの飯場跡で暮らし始めた。

 食べるのに必死の生活だったという。

 教一さんは染色業や廃品回収業、日雇い仕事などで働き、建設会社を興した。

 金鳳さんは家のそばの小屋で豚を飼育し、生まれた子豚を売って家計の足しにした。近くの製作所に働きに出て、茶摘みのアルバイトにも精を出した。そして、3男3女を育て上げた。

 住環境に話題が移ると、金鳳さんの表情が陰った。「『人間の住む所じゃない』って言われてね。差別ばかり受けた」。周囲からさげすまれても、他に行く場所はなかった。隣人と肩を寄せ合う暮らしが、ウトロにはあった。「ここはふるさとっていうか、一番大事な場所やね」

 それでも雨漏りはこりごりだった。結婚して20年たった1980年ごろ、夫妻は家を新築した。

 教一さんは「母を瓦屋根の家に住まわせたい」と願っていたが、実現する前に母は73歳で亡くなった。

 100年住むつもりで建てた家だという。当時、土木工事の下請けで働いていた教一さんが自ら基礎を打った。今も構造にゆがみはなく、なめらかに滑る引き戸を金鳳さんは何度も自慢した。台所の食卓に座り、窓際の棚に飾った写真を眺めるのが至福の時間だ。

 「つぶされるのは、悲しい。嫌で嫌で、かなんねん。仕方ないんやけど」

 思い出すのは、初めて家に足を踏み入れた日のこと。うれしくて、うれしくて、旅行した時の気分みたいだったという。

 室内は引っ越しに向け、荷物でごった返していた。色鮮やかなチマ・チョゴリを手に取れば、晴れ舞台の思い出がよみがえる。アルバムを整理すると、善光寺や松島へ赴いた家族旅行の記念写真に目がとまる。

 「ここで死ぬつもりやった」

 一番のお気に入りという、教一さんの写真を見せてくれた。にっこりと笑い、少し口が開いている。「しゃべりかけてくれているみたい」

 5月28日。金鳳さんは市営住宅の一室に引っ越した。「お父さん、一緒に行きましょう」。写真を手に自宅を後にした。真新しい部屋に段ボール箱が次々と運び込まれる。荷をほどき、化粧品を取り出す。遺影を飾った棚に収めた。

 わが家が解体される姿を、目にするつもりはない。

【3回シリーズの1回目。2回目は6月7日、3回目は8日に配信予定です】

立ち退きを命じた京都地裁判決に抗議するウトロの住民(1998年1月30日、京都市中京区・地裁)

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