ライバルはシブがき隊? JACブラザーズは真田広之、高木淳也、黒崎輝に続く3人組アイドル  日本を代表するアクション俳優、千葉真一が送り込んだJACブラザーズ

連載【ジャニーズじゃない男性アイドル列伝】vol.4 〜 JACブラザーズ

「SHOGUN 将軍」の真田広之と同じ源流を持つ3人組

このシリーズは、必ずしもメインストリームには属さなかった80年代の男性アイドルの存在をリマインドするものである。今回取り上げるのは、日本を代表するアクション俳優・千葉真一がアイドル界に送り込んだ3人組、JACブラザーズだ。

Disney+で配信中のコンテンツ『SHOGUN 将軍』で話題の真田広之はかつて、千葉真一が設立した「JAC(ジャパンアクションクラブ)」に属し、新時代のアクションスターとして売り出された。80年代前期には『忍者武芸帖 百地三太夫』(1980年)『吼えろ鉄拳』『燃える勇者』(1981年)『伊賀忍法帖』(1982年)といった主演アクション映画が続々と公開されているのだ。当時、ジャッキー・チェンが日本で絶大なる人気を誇っていた背景もプラスに働いた。アクロバティックなアクションのニーズが高まっていたのである。また、JACメンバー総出演のテレビ時代劇『影の軍団』シリーズ(フジテレビ系)の放送も人気アップの要因となった。

70年代、千葉真一や同じくJAC所属だった志穂美悦子の主演映画のメイン客層は主に成人男性なので、学校の教室で「『激突!殺人拳』は、石橋雅史に刺された千葉ちゃんの痙攣の演技が最高!」、「『女必殺拳』は、ラストで白いチャイナ服に返り血を浴びる悦っちゃんがイイ」といった会話をしている中高生は、男女ともにまずいなかった。

しかし、たのきんトリオやシブがき隊が男性アイドルの圧倒的主流だった80年代前期に、真田広之の切り抜きをクリア下敷きに入れる女子中高生は極めて少数派であったが確実に存在した。真田の登場により、アクション映画市場に、若年女性という新たな層が開拓されたのである。原田知世が角川映画のオーディションに応募した理由は、“憧れの真田広之に会いたかったから” というのは有名な話だ。

当時の真田は歌手としても活動し、定期的に新曲をリリースしていた。 真田の大ブレイクもあり、JACは新宿コマ劇場での長期ミュージカル公演を興行的に大成功させ、恒例化させていく。知名度を大きくアップさせるとともに、新しい才能の発掘、育成に一層力をいれるようになった。

真田広之、高木淳也、黒崎輝のJAC御三家

1983年、日本テレビ系で毎週土曜日19時から放送されたTVドラマ『魔拳!カンフーチェン』とその続編『激闘!カンフーチェン』の主演に抜擢されたのが高木淳也だ。当時のジャッキー・チェン人気は、ゴールデンタイムに和製カンフードラマの企画を成立させるだけの力があった。

続いて三枚目キャラの黒崎輝が、亜月裕によるコミックを実写化した映画『伊賀野カバ丸』に主演する。原作は『別冊マーガレット』(集英社)に連載されたヒット作であり、その点も含め『ボディーガード牙』『空手バカ一代』といった千葉真一主演作とは異質のものだった。黒崎は映画の主題歌「青春まるかじり」で歌手デビュー。このときは、“協力” という名目で『伊賀野カバ丸』にも助演した真田と高木がバックコーラスを努めた。真田、黒崎、高木はJAC御三家のような存在となり、3人で全国ツアーも行っている。

翌1984年も『コータローまかり通る』という黒崎の主演映画が制作された。そしてその主題歌「純愛ダイナマイト」のレコードジャケットには、黒崎を中心に、砂川真吾、真矢武、伊野口和也、藤大介というJAC若手メンバー4名が写り、“黒崎輝&ジャックブラザーズ” という文字が記されていた。すでに売れているスターのバックで若手メンバーを踊らせる。男性アイドルの売り出し方として、既視感のあるスタイルがとられた。

「N☆I☆C☆E」でデビューしたJACブラザーズ、男性アイドルシーンに参入

このジャックブラザーズは、同年9月に “JACブラザーズ" として「N☆I☆C☆E」という曲で単独デビューを果たす。ただし、メンバーはとくに説明がなく砂川真吾、真矢武、伊野口和也の3名に減少していた。3名になることで、第一線で活躍していた男性アイドルグループのシブがき隊とカブることになった。また、衣装やヘアスタイルも当時の男性アイドルの典型的なものだった。JACは男性アイドルシーンに本気で参入を図ろうとしたのだ。

加えて、JACブラザーズに用意された楽曲もまたシブがき隊と重複する要素があった。デビュー曲は、シブがき隊の楽曲における重要作家である森雪之丞(作詞)、後藤次利(作曲・編曲)が手掛けたのである。ただし、シブがき隊には真似できない、JACブラザーズだからこその要素がこの曲にはあった。いうまでもなくアクションだ。歌唱時のバック転、バク宙などは当たり前。トランポリンをいかした空中での宙返りも見せ、間奏ではマーシャルアーツを盛り込んだパフォーマンスで魅せた。肝心の歌唱力には疑問符が残るものだったが、アクションのレベルの高さはそれを補うだけのものがあった。

だが、それをテレビで目にする機会は少なかった。テレビ出演は『レッツゴーヤング』(NHK)、『鶴ちゃんのいちごチャンネル』(テレビ朝日系)など、比較的マイナーアイドルにも門戸を開いていた番組に限定されていた。インターネットのない時代、露出が少なければ高い人気を得ることは難しい。JACというブランドは絶大であり、真田広之はメジャーなスターだったものの、JACブラザーズが80年代を代表するトップアイドルになった歴史はない。1984年12月にはJACから2つ目の男性アイドルグループ “JR-Ⅲ” もデビューしているが、彼らが “JACファミリー” のようなかたちで新たな男性アイドルの一大勢力となることもなかった。

ジャッキー・チェンの映画タイトルを拝借

JACブラザーズは、1年半の間に下記の4枚のシングルをリリースした。

▶︎ 1984年9月「N☆I☆C☆E」
作詞:森雪之丞 / 作曲・編曲:後藤次利

▶︎ 1985年4月「ハートブレイク・スクール」
作詞:山本伊織 / 作曲:長沢ヒロ / 編曲:矢野誠

▶︎ 1985年11月「ドラゴンロードに花吹雪」
作詞:谷穂ちろる / 作曲・編曲:後藤次利

▶︎ 1986年5月「チャレンジャー」
作詞:森雪之丞 / 作曲・編曲:後藤次利

前述のように制作者側は、男性アイドルで実績のあるソングライターに楽曲作りを依頼した。セカンドシングルの「ハートブレイク・スクール」の作曲者である長沢ヒロは近藤真彦に多く楽曲提供している人物である。

また、JACブラザーズは当時のアイドル界での流行もしっかり取り入れている。シブがき隊の「サムライ・ニッポン」(1984年1月)、「アッパレ!フジヤマ」(1984年7月)、小泉今日子の「艶姿ナミダ娘」(1983年11月)、「ヤマトナデシコ七変化」(1984年9月)など、その頃に流行っていた “ジャポネスク路線” は、忍者風のアクションができるJACブラザーズと相性がよかった。和服テイストのある衣装を纏い、サードシングルでは “花吹雪” というワードをタイトルに用いている。

そこに、1982年4月に日本公開されたジャッキー・チェン主演映画の日本でのタイトル “ドラゴンロード” をくっつけた。「ドラゴンロードに花吹雪」…… 流行りものと流行りものをかけ合わせるのはヒットの法則だが、結果は伴わなかった。同時期に少年隊が「仮面舞踏会」でデビューしたことも大きいだろう。1986年5月に4枚目のシングル、翌月にファーストアルバム「爆男発言」をリリースしたあたりでJACブラザーズのグループとしての活動は終わっている。

もし、JACブラザーズが21世紀にデビューしていたら!?

JACブラザーズは、JACのミュージカルにも出演していたが、そのパフォーマンス性の高さはライブで力をより発揮するものだった。メンバーはそれぞれソロでの俳優活動も行い、砂川真吾は映画『さびしんぼう』に主人公(尾美としのり)の友人役で出演していた。このように、生のステージと俳優活動を組み合わせたアイドル活動は今ならばもっと多くのファンを獲得できたのではないか? また、アクションや殺陣はYouTubeやTikTokとの親和性が高そうだ。JACブラザーズは40年早かったのだ。

カタリベ: ミゾロギ・ダイスケ

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