大谷翔平の花巻東高校時代を回顧、2度の甲子園と涙を呑んだ最後の夏

Ⓒゲッティイメージズ

菊池雄星に憧れて花巻東に進学した「みちのくのダルビッシュ」

今や世界的スター選手となった大谷翔平。その高校時代を振り返ってみたい。

1994年7月5日、岩手県で生まれた大谷は、2009年春のセンバツで準優勝、夏の甲子園でベスト4入りした花巻東のエース菊池雄星に憧れ、同校に進学。1年秋からエースとして活躍し、150キロを超えるストレートを投げて「みちのくのダルビッシュ」と呼ばれた。

東日本大震災が起きた2011年。チームの大黒柱となっていた身長191センチの2年生エース大谷は、夏の岩手県大会前に左太ももの肉離れを発症した。

それでも花巻東は初戦から宮古水産、福岡、久慈東、大船渡、盛岡四を下して決勝に進出。頂上決戦でも盛岡三を5-0で破り、大谷憧れの菊池雄星が躍動した2年前以来となる甲子園出場を決めた。

大谷は大会を通じて、わずか1試合、1.2イニングに登板しただけだったが、主にライトを守りながら野手として優勝に貢献。憧れの聖地に辿り着いた。

2年夏の甲子園は帝京に惜敗

第93回全国高等学校野球選手権大会。花巻東の初戦の相手は東京の名門・帝京だった。

ケガの癒えない大谷はライトで先発。初回に2点ずつを取り合ったが、2回に帝京に勝ち越されて迎えた4回だった。1点を失ってなおも1死一、三塁とピンチを迎えたところで、大谷がライトからマウンドへ向かう。大会注目右腕の登場に、ネット裏のスカウト陣は姿勢を正し、スタンドのファンは大歓声を送った。

手負いのエースはいきなり148キロをマークしてスタンドをどよめかせる。犠牲フライを打たれて失点したが、目を見張るストレートのキレに誰もが息を呑んだ。

大谷はその後も痛みに耐えながら投げ続けたが、本調子に程遠かったこともあり結局5.2回3失点(自責1)。打っては6回に三たび同点に追いつくレフトフェンス直撃の2点タイムリーを放ったものの7回に勝ち越しを許し、7-8で敗れた。

この日マークした150キロは、2005年夏に駒大苫小牧・田中将大が出した2年生投手の甲子園最速。投打に非凡なセンスを発揮したが、ケガで完全燃焼できないまま、初めての甲子園はたった3時間6分で終わった。

3年センバツは大阪桐蔭に逆転負け

3年生が引退し、最上級生となった大谷は改めて甲子園を目指した。左太もも裏のケガが長引き、秋季岩手大会も出場機会は少なかったものの優勝。東北大会でもマウンドに立つことはなく野手に専念したが、準決勝で北條史也と田村龍弘のいた光星学院に敗れた。

当時、東北のセンバツ出場枠は2校だったが、光星学院が明治神宮大会で優勝したため神宮大会枠が東北に付与。ベスト4どまりだった花巻東に2012年センバツ出場の吉報が届いた。菊池雄星が決勝で涙を呑んだ3年前以来の出場だ。

3月21日、大会初日の第3試合でいきなり出番が訪れた。相手は優勝候補の大阪桐蔭。エース藤浪晋太郎との激突は大会注目の好カードだった。

先制したのは花巻東だった。2回、4番・大谷が藤浪からライトスタンドに放り込む特大アーチ。花巻東は4回にも1点を追加し、試合を優位に進めた。

しかし、先発の大谷は6回に3点を失って逆転を許すと、7回には4番・田端良基に一発を浴びるなど計9失点。8.2回で11三振を奪ったものの、被安打7、11四死球と乱れ、9回途中でマウンドを降りた。

結果的には2-9の大敗。雪辱を期したはずの甲子園で、大谷はまたも悔しい結果に終わった。

3年夏は岩手大会決勝で盛岡大付に敗戦

最後の夏。岩手県大会初戦の宮古水産戦に12-0で圧勝した花巻東は、圧倒的な強さで勝ち上がった。

大谷は準決勝の一関学院戦で高校生史上初となる160キロを計測。7回3安打1失点13奪三振の快投でコールド勝ちし、決勝に進出した。

2012年7月26日、盛岡大付との決勝戦。先発マウンドに立った大谷はいつもと違っていた。ケガの影響か、勤続疲労か、はたまたプレッシャーか、肘が下がり、球威も徐々に落ちていった。

3回には左翼ポール際に3ランを浴び、県内の公式戦では初めての被弾。花巻東ベンチはファウルをアピールしたが判定は覆らなかった。結局、毎回の15三振を奪ったものの、8.2回9安打5失点。本領発揮したとは言い難い投球だった。

3-5。スコアボードに刻まれたスコアが夏の終わりを告げた。憧れの菊池先輩が果たせなかった日本一を目指す挑戦は、道半ばで途絶えた。

その後、大谷は9月に行われた第25回AAA世界野球選手権大会に日本代表として出場。主に4番・指名打者として起用され、5位決定戦の韓国戦では先発して7回2失点12奪三振と好投したが負け投手となった。

今では世界中から憧れられる存在となった大谷翔平も、高校時代に輝きを放つシーンは決して多くなかった。胸に刻んだ悔しさが、その後の大活躍の原動力になったのかもしれない。



© 株式会社グラッドキューブ