【福島県】新卒で移住し、失敗、挫折、仕事がゼロに。「おたがいさま」の関係性がある楢葉町で塾を開業するまで

2023年8月、福島県楢葉町(ならはまち)に震災後はじめて学習塾がオープンしました。

塾の名まえは、個別志導塾「燈 -tomoshibi- (ともしび)」。何かに悩んだり迷ったりしたとき、勉強が灯をともすように人生を救ってくれたら……。そんな想いを込めて学習塾を立ち上げたのが、堺亮裕(さかい・りょうすけ)さんです。

大阪府出身の堺さんは、大学院卒業とともに楢葉町に移住。フリーランスで、地域コーディネーターやBBQのインストラクター、カメラマンなど幅広い活動を行っています。この町へ来た当時は「何もできなかった」という堺さんですが、学習塾まで開くことに。いったいどんな経緯があったのでしょう。

開け放った玄関から気持ちのよい風が流れ込む「燈」で、楢葉町に来たきっかけや塾をオープンするまでの紆余曲折を伺いました。

堺亮裕(さかい・りょうすけ)

1992年大阪府富田林市生まれ。関西大学社会安全学部で防災・復興を研究する中で楢葉町の復興に関わり、大学卒業と同時に楢葉町に移住。まちづくり会社に勤務したのち、フリーランスとして双葉郡のまちづくりや地域のコミュニティづくりに携わる。2023年8月個別志導塾「燈 -tomoshibi- 」をオープン。双葉郡に根付き、地域コーディネーターやフリーカメラマンなど幅広い活動を行っている。

導かれるようにこの町にやってきた

今回訪れた楢葉町は、首都圏から車でおよそ3時間。福島県浜通り地方のほぼ中央に位置し、寒暖の差が少なく穏やかな気候の町です。

2011年3月当時、人口約8,000人の楢葉町は、東日本大震災に伴う福島第一原子力発電所の事故により、全町民が避難を余儀なくされました。「すぐに帰れる」と思って町を離れたその日から約4年半。避難指示が解除となり、まちの暮らしを取り戻せるようになったのは2015年9月のことでした。

現在では、商業施設や交流施設、飲食店なども充実し、震災前の暮らしの風景が戻りつつあります。

みんなの交流館 ならはCANvas

堺さんに会いに訪れたのは、JR竜田駅から徒歩5分の場所にある個別指導塾「燈 -tomoshibi-」。指定された場所に到着すると、そこには民家があるだけ。「塾はどこだろう?」とキョロキョロしていると、間もなくして車に乗って堺さんが現れました。

「塾っぽい外観じゃないですよね」と笑いながら差し出してくれた名刺を受け取ると、名前の下に書かれたハッシュタグに目が引き付けられます。

#身長190cm #大阪府出身 #楢葉町在住 #関西大学社会安全学部卒 #福島バーベキュー協会 #BBQインストラクター #家庭教師 #焚き火

「いったい何をしている人なんだろう?」それが堺さんへの第一印象です。

大阪市のベッドタウン、富田林市出身で生まれ育った堺さん。東日本大震災が起きたその日は、高校の卒業式を迎えていました。大学は、関西大学社会安全学部へ進学。防災・減災・危機管理などを学問的に学び、4年間の授業内容は震災一色だったといいます。

進学先を決めたのは震災以前のこと。もともと防災や減災について興味があったのでしょうか。

堺さん 「実は僕、法学部に進みたかったんです。でも、指定校推薦の争いに負けて、残っていたのが社会安全学部でした。だから、最初から興味を持ってめちゃめちゃ勉強しようと思っていたわけではないんです。

でも、大学4年間の授業内容はほぼ震災のことで、被災地へ何度も足を運びました。たまたま入ったゼミで、恩師・永松伸吾教授が楢葉町の復興計画策定に携わっていたこともあって、楢葉町と深いつながりができました。今思えば、ここへ来たことは運命的だったのかなと思います」

「絶望」を感じた楢葉町との出会い直し

堺さんが、はじめて楢葉町を訪れたのは2013年の冬。避難指示解除の兆しさえ見えず、震災の爪痕を深く残した時期です。

堺さんは大学の授業の一環で仮設住宅へ赴き、まちの人たちの声を拾います。「楢葉町へ戻る意志」をヒヤリングすると、「もう戻らないと思う」「生活インフラが整わないと住むことはできない」「人が戻らないと商売が成り立たないので、帰りたくても帰れない」という悲痛な声が聞かれました。

当時の堺さんは「もうこの町は消えてしまうのでは……」と絶望感を抱いたといいます。

それから再び楢葉町を訪れたのは、避難指示が解除された2017年のことです。

当時の帰町率は震災前の30%ほどでしたが、人が戻った町は、以前とはまったく違う印象でした。

堺さん 「畑仕事やお茶のみ、夜の宴会……、町の人たちが自由気ままな暮らしをしていたんです。僕の目には、もとの暮らしを取り戻せた幸せを噛みしめて、心底楽しんでいるように見えました。絶望的に思えた町には、希望がたくさんあったんです。

町の人たちと一緒にお酒を飲ませてもらう機会があったのですが、本当に楽しくて、シンプルにこんな暮らしがしたいなと憧れました。それから、この町の人たちの一員に混ぜてもらって、何かできたらいいなと考えるようになりました」

もともと起業志向の強い堺さんは、2017年に大阪のビジネスコンテストに出場し、VR上でリモート仕事ができる仕組みを考え、特別賞を受賞しています。「いずれ都会の仕事は地方でもできるようになる」と確信を持っていたこともあり、迷うことなく楢葉町への移住を決断しました。

プライドを捨て、社会を学び直した

2018年4月に移住をした堺さんは、楢葉町のまちづくり会社に入社します。しかし、大学院を卒業したて、ビジコンでは受賞経験があり、万能感もあって、ご自身いわく「すごく尖っていた」そうです。

堺さん 「入社して1ヶ月で上司に会社の運営を物申す、みたいな……(笑) 社会人なりたての当時は、やる気はあるけど、とにかく空回りしているような状態でした。

プライベートでは地方創生のオンラインサロンに入って活動していたので、全国で活躍する仲間とつながっていました。そんな人たちに囲まれていたら、自分もすごい人になったような気になって「会社でまちづくりに関わるよりも自分で行動した方が早い」という思考になりました。今振り返ると、実際は何もできないのに、幻想に陥っていただけなんですけどね」

堺さんは、入社1年目で会社を飛び出しフリーランスになります。縁あって福島県郡山市の企業から仕事を請け負い、新たな道を歩み出しました。ところが、仕事の受注も半年足らずでなくなってしまいます。

堺さん 「クラウドファンディングのサポート業務を任せてもらったのですが、クライアントが求めることが理解できず、何もできなかったんです。完全に力不足のままフリーになってしまって、気づけば、実績もない、仕事もない、貯金もないという状態でした」

もう一度社会人としての経験を積むために楢葉町を出て就職するべきか、残るべきか……。悩みを打ち明けたのは、現在、楢葉町で「シェアハウスkashiwaya」を運営する古谷かおりさんでした。

古谷さんは、楢葉町の復興を支えてきた一人で、堺さんにとって一番信頼できる存在です。そんな古谷さんに相談をすると、温厚な彼女の口から「今この町を出ていったら、もう戻っては来られないと思うよ」という厳しい言葉が返ってきました。

自分のためにぶつけてくれた厳しい言葉と古谷さんの真剣な眼差しに、堺さんは改めて「楢葉町で挑戦したい」という本心に気づいたといいます。

それからの堺さんは、地域の中に飛び込む覚悟を決めます。サツマイモ掘りのアルバイト、水道工事の作業員、自治会の消防団と、なんでも挑戦しました。学生時代のような気持ちに戻って仕事をする経験は、堺さんの「糧」となっていきました。

堺さん 「ずっと実家暮らしで一人で地方に来たので、そもそも世の中を知りませんでした。それに僕はプライドが高くて、それが邪魔をしてうまくいかないことが多かったように思います。以前、お世話になった企業の代表からは、『”ありがとう”と”ごめんなさい”を言えるようになろう」と言われました。社会人の基本かもしれないけど、当時の僕はそれすらできなかったんです。”ありがとう”は言えても、”ごめんなさい”って難しいんですよね。でも、地域の中で学ばせてもらえたことで、いい意味でプライドをへし折ってもらえました。今思えば、自分自身が成長する大事な期間だったのだと思います」

自分の強みに気づいて、まちのニーズにも気づいた

2020年4月、コロナ禍に突入したこともあり、堺さんはリモートでできる仕事に挑戦をはじめます。京都府にあるまちづくり会社の組織マネジメント支援などを担ううちに、自分の強みに気づけるようになっていきました。

堺さん 「たとえば、企業の代表の話を聞いて課題を整理し、プロジェクトとして切り出すようなことをするとすごく喜ばれたんです。それで企画系の仕事が得意なことに気づきました。

それから、周りの人たちに言われた強みは「面白がり力」です。誰かのやりたいことを面白がって、加速させていくようなことが得意なんだと気づかせてもらいました。今はその強みを生かして、インターン生のコーディネート事業に携わらせていただいています」

さらに、学生時代に塾でアルバイトをしていた経験から、家庭教師をはじめるようにもなりました。きっかけは、町の人から「子どもの勉強を教えてくれないか?」とお願いされたことです。

堺さん 「町には着実に子どもが増えているのに、学校以外の学びの場がありませんでした。町の人からの依頼は、この町のニーズです。この先、学習塾のような場所が必要になるのではと考え、2020年ごろから構想を温めてきました」

とはいえ、当時は学習塾を開く勇気も、物件を借りる経済的基盤も持ち合わせていなかったため、実現に向けて加速したのは、構想から3年が経過した2023年に入ってからでした。

勉強が人生を救ってくれた経験を、子どもたちに

フリーランスでの仕事や家庭教師を並行しながら、構想が形になったのは2023年8月のこと。町でつくってきた人との関係性が後押しし、個別志導塾「燈 -tomoshibi- 」がオープンしました。

堺さん 「物件は大家さん、古谷さんと一緒に活用方法について検討をしていました。それを『人が集えるような場にしたいね』と、仲間たちと月に一度集まって、掃除をし、改装してきたんです。『学習塾を開きたい』という話をしたら、『ここを使ったらどう?』ということになり急ピッチで話が進みました」

事務所兼塾の建物は、旧芦口石材店の母屋。昔ながらの造りで、奥にはキッチンもある。田舎のおばあちゃんの家に来たようなくつろげる空間

塾は生徒のペースで学べる個別指導。一人ひとりが集中して勉強できる空間

「燈-tomoshibi-」という学習塾の名称には、どんな想いが込められているのでしょう。

堺さん 「僕が育った町では、1つの通りに5〜6軒の塾が立ち並んでいて、塾に行くのが当たり前のような環境でした。うちはそんなに裕福な家庭じゃなかったから、塾に通えたのは部活を引退した中学3年生の2学期から数学1コマだけです。でも、自習室が自由に使えたので、学校帰りに毎日通って22時くらいまで勉強をしました。塾帰りに友だちとコンビニに寄って買い食いするのも楽しかったんですよね。

自習は、とにかく繰り返し過去問を解きまくりました。それで気づいたらどんどん偏差値が上がって、最終的には絶対に行けないだろうと言われていた高校に合格できたんです。この経験は、僕に自信を与えてくれました。何かに迷ったとき、困ったとき、勉強って人生を救ってくれるんじゃないかな。今、勉強ができなくて悩んでいる子にも、闇を照らす燈明のような場所になれたらという想いを込めて、この名前をつけました」

失敗しても「おたがいさま」の関係

現在、「燈」には学校帰りの小中学生が毎日のように自習室に来るそうです。勉強に疲れたら、居間でくつろいだり、ソファーに寝そべったり。このまちの子どもたちにとって、安心できる第三の居場所のような存在です。

堺さん 「ここに来る子たちを見ていると、勉強ができないというよりも、勉強の仕方がわからないと悩んでいる子が多いですね。今の子たちは『自分で考えよう』という教育を受けているのですが、そのための“考える方法”を教えられてなくて、ケアが行き届いていない印象です。なので、まずは自ら進んで学ぶ『学び方』を身に着けさせてあげたいと考えています。勉強するときはしっかり集中して、休むときはリラックスできる居場所づくりもしていきたいですね」

楢葉町に移住をして5年。紆余曲折ありながらも学習塾を開業した堺さんは、「町に恩返しがしたい」と話します。

堺さん 「フリーランス1年目は、まったく仕事ができなくて周りの人たちにすごく迷惑をかけてしまいました。それでもこの町の人たちは、やさしく見守って、時には厳しく、応援し続けてくれました。だからこそ、がんばろうと何度も立ち直ることができたんです。

『おたがいさま』が成り立つ関係性が居心地いいんですよね。農家さんに頼まれてパソコンを直したら、その代わりにお米をもらったり、今乗っている車も譲っていただいたものだったり。僕はそんな地域のかかわりの中で生きていて、たくさんのギブをいただいています。だから打ち返すのに必死です(笑) でも、それが僕の活力になっているんです」

今後の展望を伺うと、堺さんの頭の中にはまだまだやりたいことが溢れるようにありました。

失敗しても、やり直せばいい。そうやって育まれてきた関係性と寛容な空気は、何度でも“挑戦”する力を与えてくれるのかもしれません。

新卒で移住し、フリーランスをしながらオリジナルの道を切り拓いてきた堺さん。自分の「できる」をフィットさせる生き方は、やるべきこと、やりたいことは一つに絞らなくてもいいのだと教えてくれているような気がしました。

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※本記事はふくしま12市町村移住ポータルサイト『未来ワークふくしま』からの転載です。

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