「われ考える、ゆえにわれあり」…デカルトが遺した”デカルト的二元論”

(※写真はイメージです/PIXTA)

デカルトはそれまでなかった新しい思考法を生み出し、後の哲学界にも影響を与えたことで「近代哲学の父」と称されるようになりました。有名な命題「われ考える、ゆえにわれあり」とはいったいどのような論理なのでしょうか。デカルトの思想について、著書『超要約 哲学書100冊から世界が見える!』(三笠書房)より、白取春彦氏が解説します。

近代哲学の父による「真理を見いだす」方法

17世紀当時の学問の慣習として論文はラテン語で書くのが一般的でしたが、デカルトは広く読んでもらうためにフランス語で書くようにしました。その全500頁以上になる論文の序文が『方法序説』です。

文章は平易なエッセイ風であり、自分が今まで学んだ学問だけではあきたらず、もっと確実で新しい思考の方法を求める自分の姿勢をはっきりさせ、そしてついにそれまでの哲学観念や学説にまったく依存しない規則などが述べられます。

その規則とは次の4つです。明証性、分析、総合、枚挙。これはデカルトの専門分野である幾何学を哲学の思考に応用したものです。明証性とは、真であると自分が認識したものでない限り、真として受け入れないということです。そうしないと、つい速断してみたり、先入観にまどわされたりしてしまうからです。

疑いようもない「真」は「考える私」

自分で決めたその規則にしたがってデカルトは何が本当に確実なものであるかを考え、結論を出しました。それがあの有名なフレーズ「われ考える、ゆえにわれあり(ラテン語で、コギト・エルゴ・スム)」でした。

この「われ考える、ゆえにわれあり」の論理は次のようなことです。自分が見たこと、経験したことはいくら確かに思われることであっても、不確かである可能性がある。自分の知覚など、そのすべては錯覚かもしれない。ひょっとしたら、現実のすべてが夢である可能性すらある。そんなふうに何もかもが疑いえる。

しかし、たった1つ、疑いようもないことが残っている。

その疑いようもないこととは、この自分がここで考えている、という事実です。だから、自分の実在こそ確かだと明証される、それこそ真理だとデカルトはいうのです。

ただ、デカルトのこの考え方には奇妙なところがあり、それは、考える私ではなく、思考だけが疑いえないものではないか、とは考えなかったということです。

ちなみにデカルトが「考える」というとき、問題についてのまとまった思考のことばかりではなく、あらゆる心の動きをも含めた広い意味になっています。

そのように考えたため、いわゆる「デカルト的二元論」というものが出てくることになります。その二元論とは、この世には精神のような非物体的実在と肉体のような物体的実在の2つがあるというものです。人間はこの2つがうまく合わさったものだというのです。しかし、精神が人の内部にあって肉体を操縦しているというのではなく、精神と肉体が脳の下部にある松果腺(現代医学でいう松果体のこと)で統合されているというのです。

ここから、哲学の新しい問題、心と体はどのようにつながっているのかという心身問題が生まれました。

火あぶりから逃れるための”神の存在証明”

生活費を得るためにプロテスタントとカトリックの2つの軍隊に属して生活することで自分のために思考の時間をつくっていたデカルトの哲学はやがて多くの人に影響を与え、論争、批判、称賛を呼び起こしました。哲学界では、ホッブズ、バークリー、スピノザの考え方に刺戟を与えました。

ところで、神の有無の問題になると、デカルトはおざなりで腰の引けた態度になります。デカルトはこう述べています。自分の中には完全な存在についての観念がある。不完全である自分の中に、完全なものの観念があるのはおかしい。それでもなお完全なものの観念があるのは、完全なる神によってその観念がきざみこまれたのでなければならない。だから、神は存在するのだ、というわけです。

デカルトがわざわざこのように、あたかもつけたしのような神の存在証明をしたのは、キリスト教会から唯物論者とみなされて火あぶりにされないようにするためだったのです。

賢人のつぶやき 良い精神を持っているだけでは十分でなく、大切なのはそれをよく用いることだ

白取 春彦

作家/翻訳家

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