埼玉定番“十万石まんじゅう”驚きの秘話続々 「うまい」と「うますぎる」の間に、最初もう一言あった 「饅頭」でなく「幔頭」と書く理由 背景に滝が映った「風が語りかける」のCM、テレビ埼玉の営業マンがバケツで必死

埼玉銘菓の十万石まんじゅう

 「風が語りかけます。うまい、うますぎる! 埼玉銘菓十万石まんじゅう」。テレビ埼玉が開局した1979年から放送されている十万石ふくさや(埼玉県行田市)のテレビCM。埼玉県民ならば誰でも知っている!?名物CMだ。

 「たくさんCMを手がけてきたが、ここまでヒットするとは」と語るのはテレビ埼玉の営業マンだった関口晴彦(72)。高校野球埼玉大会の中継でCMを流すため、飯能市の竹寺で急きょ撮影を行った。背景が寂しかったので、関口がバケツで水を流して滝を作った。「何度も水を流して大変だった」と苦笑する。

 「うまい、うますぎる」というフレーズは版画家の棟方志功の言葉。行田市の書家・故渥美大童が志功に師事したことが縁で、十万石まんじゅうを味わった志功は「うまい。行田名物にしておくにはうますぎる」と絶賛したという。

 志功は掛け紙に忍城の姫を描き、「饅頭(まんじゅう)」と書くべきところを「幔頭(まんじゅう)」と書いた。幔幕のように幅広く、長い間愛されるようになってほしいという意味が込められている。

 同社は1952年に故横田信三が創業した。昭和30年代に熊谷市に支店を出店したのを皮切りに多店舗展開するなど信三は経営手腕を発揮した。看板商品は地元・忍藩の石高10万石にちなんで命名した十万石まんじゅう。信三の三女で同社取締役社長室長の京子(68)は「一番シンプルな十万石まんじゅうで勝負しようとしていた」と振り返る。

 北海道十勝産の小豆や新潟県産のコシヒカリなど、素材にこだわる。甘すぎず、1個食べるとまた手を伸ばしたくなる。リピーターも多く、CM効果もあって埼玉土産の定番の一つとなった。

 信三は1999年に79歳で亡くなり、京子の夫の康介(67)が跡を継いだ。現在は県内に36店舗を展開するが、「先代が十万石という看板を残してくれた功績は本当に大きかった」と語る。

 近年は、まんじゅうの焼き印を変更したコラボレーション商品も相次ぐ。同市が舞台の映画「のぼうの城」(2012年)やテレビドラマ「陸王」(17年)から、映画「翔(と)んで埼玉」まで、その数は50以上。話題に上ることも多いが、康介は「コラボはすぐに終わるので」とそれほど気にかけていない。

 最近は気候変動などで高品質の素材を手に入れるのも簡単ではなくなってきている。「品質を信じて、良い商品を出していくしかない。今までやってきたことを愚直に続けていく」と話した。(敬称略)

■足袋蔵を活用した本店

 十万石ふくさやの行田本店は、行田を代表する店蔵だ。この建物は呉服商の山田清兵衛商店の店舗として1883(明治16)年に棟上げされ、足袋蔵にも使われた。1978年の改修で、壁面に平らな瓦を並べて貼り、瓦の継ぎ目に漆喰(しっくい)をかまぼこ型に盛り付けて塗る「なまこ壁」にした。2007年には国の有形文化財に登録された。

 創業時は現在の本店の隣にあった呉服店の店蔵を活用していたが、開店後数年で西へ約80メートル離れた場所にあった店蔵に移転。重厚な造りの蔵で、こちらも元呉服店だった。当時では珍しく喫茶室も備えた店で、にぎわいを見せたが、1967年に火事で焼失。翌年から現在の本店の蔵を使っている。

 社長の横田康介は「蔵は維持管理が大変だが、先代が蔵のイメージを大事にしていた」と語る。創業者の横田信三は地元出身で、歴史がある行田のまちに誇りを持っていた。足袋産業が衰退し、足袋蔵が取り壊される状況に危機感を感じ、再活用を決意したという。また、温度の変化が少ない蔵は和菓子などの商品管理にも向いている。

 店蔵は2011年3月の東日本大震災にも持ちこたえたが、徐々に壁が崩れ、同年7月から改修工事を行い、翌年2月で完了した。

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