【読書亡羊】原爆スパイの評伝を今読むべき3つの理由  アン・ハーゲドン『スリーパー・エージェント――潜伏工作員』(作品社) その昔、読書にかまけて羊を逃がしたものがいるという。転じて「読書亡羊」は「重要なことを忘れて、他のことに夢中になること」を指す四字熟語になった。だが時に仕事を放り出してでも、読むべき本がある。元月刊『Hanada』編集部員のライター・梶原がお送りする時事書評!

プーチンがその功績を表彰

今回取り上げるアン・ハーゲドン著『スリーパー・エージェント――潜伏工作員』(布施由紀子訳、作品社)を、今読むべき理由は3つある。

一つ目の理由は、ロシアによるウクライナ侵攻開始以降、国際社会が「核の季節」を迎えていることだ。

本書は、アメリカ陸軍に所属し核兵器開発計画に携わったソ連のスパイ、ジョージ・コヴァルの生涯を追ったノンフィクション。コヴァルはソ連の核開発に最大級の貢献をした人物だ。

2007年には、プーチン大統領がコヴァルに「ソ連初の原子爆弾製造への貢献を称えて、民間人に贈
られる最高の栄誉勲章」を授与している。

プーチン大統領はコヴァルについて次のように述べている。

〈ソ連の諜報員としてただひとり、原子爆弾製造に使われるプルトニウム、濃縮ウラン、ポロニウムを生産するアメリカの極秘核施設に潜入〉し、それによって〈ソ連の原子爆弾の完成が大幅に早まり、軍事戦略においてアメリカとつねに肩を並べていける存在になれた〉。

コヴァルは「スリーパー・エージェント」、つまり潜伏工作員としてアメリカ社会に溶け込み、陸軍に所属して核兵器開発のための「マンハッタン計画」の一員に加わりながら、ソ連に最大級の貢献を果たしたのである。

1945年前後のソ連の核開発はアメリカに大きく遅れを取っており、「仮に核開発を実現できるとしても、少なくとも10年以上後のことになるのではないか」との見方が大半だった。その中で、コヴァルがソ連に提供した情報は、核開発の要ともいえる部分であり、実際にアメリカの原爆投下からわずか4年後にソ連の核保有が実現できたのだ。

だが、コヴァルが祖国から表彰されたのは死後のことであった。

アメリカでは戦後、米ソ対立が激化するほどにソ連のスパイを摘発する動きも活発化した。核開発に関係して、ソ連がアメリカ国内で活動させていたスパイも摘発される。

「マンハッタン計画」に潜入していたクラウス・フックスは逮捕され服役。原爆製造工場で働く身内から情報を得てソ連に流していたローゼンバーグ夫妻はそろって処刑された。

一方、発覚前に祖国へ帰還していたコヴァルにはアメリカのFBIやCIAも辿り着くことができなかった。それほどまでにコヴァルはスパイとして完璧に自身の痕跡を消し、工作員に徹していたのだ。

本書に詳しく書かれているが、スパイ小説もかくやというほどスリリングな、しかし静かな「諜報活動」の実態が明らかにされている。

オッペンハイマーとの共通点

二つ目の理由は、日本公開がようやく決まり、先の米アカデミー賞で最多の7冠を獲得した映画『オッペンハイマー』の主役であるロバート・オッペンハイマーとの共通点だ。

ご存じの通り、原爆開発のための「マンハッタン計画」で科学部門のリーダーを務めたのがロバート・オッペンハイマーだった。そしてコヴァルは、スパイ活動の一環として同計画への配属を勝ち取っている。コヴァルはスパイとしての能力も高かったが、オッペンハイマーと同様に科学者としての能力も高かったのだ。

一方、映画で描かれる、「科学・物理学の集大成が核兵器でいいのか」といった研究者としての葛藤が、コヴァルにあったのかどうかは不明だ。本書はコヴァルの評伝ではあるが、彼自身が「その時何を感じ、何を思っていたのか」については書き残していないため、心情については知り得ない。

同じユダヤ系の科学者として核開発の最前線に立っていた二人。原爆投下後、核開発の立役者として表舞台に立ったオッペンハイマーは葛藤を抱えながらも人々からの拍手喝采を浴びた。

他方、ひそかに核開発情報をソ連に伝え、その功績を誰にも明かすことのなかったコヴァルは、戦後に戻ったソ連国内の反ユダヤ的な空気を警戒しながら「真っ白な経歴」の軍の末端兵士として働き、晩年は生活にも困るようになった。スパイとしての功績は、自分の経歴から抹消しなればならなかったからだ。

描かれなかった広島・長崎

「スパイのその後」と言えば「祖国に帰還して英雄になる」か「スパイとばれて逮捕・処刑」か「司法取引でスパイの全容を洗いざらい話す」というのが大体のパターンだが、コヴァルはこれらとは全く違う「その後」を歩んでいる。

「発覚しなかった=完璧に任務を達成したスパイ」の行く末とはこういうものなのかと感心してしまった。

ただし、日本人である以上、どうしても気になる本書と『オッペンハイマー』の共通点として、「当の原爆を落とされた広島・長崎の描写はごくわずかである」ことは指摘しておきたい。

『オッペンハイマー』は未鑑賞だが、解説によると広島・長崎の原爆投下の事実には触れられるものの、「オッペンハイマー自身が実際に目撃していないから」という理由で、被害に関する直接的な描写はないという(間接的に被害に対する制作陣の意図がわかるシーンはあるようだが)。

その点は本書も同様で、原爆投下についての描写は、投下の事実とそれによるアメリカ政府や軍の秘密保持の動きに関する記述にとどまっている。

もちろん、本書も映画も「原爆被害」そのものを描くことが主眼ではないのだが、日本人としては「被害についてもぜひ知っておいてくれ!!」と声を大にして言いたい面はある。

アメリカに渡ったユダヤ人

そして三つ目の理由はこれまでにも書いてきた通り、コヴァルがユダヤ人であることだ。

帝政ロシア末期の20世紀初頭、当地では「ポグロム」と呼ばれるユダヤ人に対する殺戮、排斥運動が起きていた。コヴァルの両親はこの惨劇から逃れるためにアメリカに渡ったユダヤ人であった。

そのため、コヴァルはアメリカ生まれのアメリカ育ちで、成績優秀な青年であった。ところが、新天地であるはずのアメリカにも差別が待っていた。ロシア革命を経たソ連に対するアメリカの警戒心が高まり、中でもユダヤ人に対しては「共産主義者」というレッテルが貼られたという。

これ自体はレッテルなのだが、実際にコヴァルの両親は熱心な社会主義者であったため、ついにアメリカにいづらくなり、一家は再び祖国ソ連へ戻ることになる。そしてコヴァルはモスクワの大学で科学を学んだが、赤軍参謀本部情報総局(GRU)に目をつけられてしまう。

アメリカ生まれで流暢な英語を話すことができる一方、社会主義の理念を信じ、科学的知識も申し分なし、と技術系スパイとしてはもってこいの人材だったのだ。

国を持たないユダヤ人の悲哀

アメリカでのコヴァルの活躍は本書を読んでいただくとして、実に今日的なのはユダヤ人であるコヴァルがアメリカとソ連という対立する大国の両方で、人種を理由に差別的風潮に直面することである。

国を持たないユダヤ人だからこそ、国を超えて各国に居住している。差別を受けるからこそ、移住せざるを得ず、だからこそ国家に対する忠誠を示す必要に迫られる。だがそれがスパイとして格好の素質・下地となり、故に「ユダヤ人は実際のところ、誰の味方なのかわからない」という偏見を強めもするのだろう。

本書が描き出すコヴァルの人生を、「アメリカ人でもソ連人でもない、一人のユダヤ人」として見ると、また違った読み方ができるのだ。

原爆によって終わった第二次大戦が終戦してまもない1948年に、ユダヤ人の国家であるイスラエルが建国された。各地で差別やジェノサイドの憂き目にあってきたユダヤ人が「自分たちの国」を持てたことはどんなにか誇らしい出来事だったろうと思う。

そう考えると、ナショナリズムの高揚や他国をしのぐ情報機関の存在などからも感じるように、イスラエルは今まさに19世紀から20世紀の国民国家の足跡をなぞり直しているのかもしれない。

だが、だからと言って今のイスラエルがやっていることすべてを許容できるわけではない。先人たちが受けて来た殺戮の恐怖を、パレスチナ人に与えることにもなっているからだ。

本書の原著は2021年に刊行され高い評価を得たという。日本では2024年の今、まさに読まれるべき時期の刊行となったといえるだろう。

梶原麻衣子 | Hanadaプラス

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