「ここは自分の居場所ではない…」夢を捨ててサラリーマンになった男へ告げられた“経営者からの言葉”

「それでは、今日も1日頑張りましょう!」

大きな声で毎日の朝礼を締めるのが、この不動産会社における久保田大志の役割だった。入社してからずっとこの役割を担い続けている。社長いわく「社員の気持ちを盛り上げる大切な仕事」らしい。

大学を卒業してからこの会社に入るまでの13年間、久保田はずっと漫才を続けてきた。大学の漫才サークルで知り合った宮田と「ホプキンス」というコンビを組んでいた。小さなコンテストで優勝したり、深夜番組に単発で出演することはあったものの、最後までブレークすることはできず、ホプキンスは3年前に解散し、久保田は賃貸物件の仲介に特化したこの不動産会社に入社した。

コンビの解散を切り出したのは久保田だった。35歳という年齢になり、飲食店やコンビニでのバイトをしながら漫才を続ける生活に疲れ果てていた。

この会社に入社した当初はなかなか苦戦した。人見知りするような性格ではないので、来店したお客さんを物件に案内する仕事は楽しめたが、不動産関係の知識を身につけるのに苦労した。会社のトップである社長が「自分のペースで仕事を覚えればいいから」と許容してくれたから良かったものの、厳しい社長だったらクビにされていたかもしれない。

毎日必死になって勉強したおかげで不動産の知識はそれなりに身につき、2度目のチャレンジで宅建の試験にも合格できた。社長や同僚は喜んでくれたし、久保田自身もそのときは本当にうれしかった。自分がやっと1人前になれたような気がした。

ここは自分の居場所ではない

しかし、どうしても「ここは自分の居場所ではない」という気持ちを拭い去ることができなかった。要するに、漫才にまだ未練があったのだった。

かつての相方である宮田からも「また一緒に漫才をやりたい」と声をかけられていた。ホプキンスが解散したあと、宮田はピン芸人として活動を続けていた。有名なコンテストにもピン芸人としてエントリーし、準決勝まで残ったというのだから大したものだ。

久保田にとって、バイトをしながら漫才を続ける生活は決して楽ではなかった。しかし、舞台に立ってネタを披露し、お客さんを笑わせる快感をそう簡単に忘れられるわけがなかった。お客さんを爆笑させた瞬間、自分という存在が全肯定されたかのような圧倒的な快感を味わうことができるのだ。

しかし、不動産会社を退職して漫才の世界に戻るというのは、あまりにも勇気が必要な選択だった。実力だけがものをいうお笑いの世界で、カムバックしてきた芸人が居場所を得るのは簡単なことではない。

引退する前はコンビで深夜番組に出演する機会もあったが、そんな役割すら得られない可能性が高い。35歳でせっかく正社員になれたというのに、その立場を自ら手放すという決断をそう簡単に下せるわけがなかった。

元・相方との再会

数日前、コンビを組んでいた時に通っていた懐かしい居酒屋で、久保田は宮田と酒を飲みながら話した。

「久保田、マジでもう1回一緒にやらないか?」

宮田の顔はビールと焼酎で赤く染まっていたが、酔った勢いで適当に言っているわけではないということはその真剣なまなざしが物語っていた。

「お前、ピンでちゃんとやれてるんだろ? いまさら俺がいても仕方ない」

「いや、やっぱりピン芸人は俺の性に合ってない。舞台に立っても、なんとなく違和感があってダメなんだ。お前といる時は、そんなことなかった」

「そうは言っても、俺にも生活があるから難しいよ」

「実は『ホプキンスが復活するなら協力するよ』っていう人が何人もいるし、意外とうまくいくと思う。ていうか、お前は本当に今の生活に満足してるの? 本当に不動産の仲介が漫才より楽しいの?」

「いや、満足してるとかそういうことじゃなくて……」

日付が変わるまで、酒を飲みながらそんな話を繰り返していた。飲みながらの話で結論が出るはずもなく、今日も久保田は不動産仲介の仕事を続けている。しかし「お笑いの世界に戻る」という選択が頭から離れることはなく、ここ最近は仕事に身が入らない日々が続いていた。

仕事に身が入らないゆえのミス

繁忙期は過ぎたものの、お客さんが誰も来ない日というのは基本的にない。今日、久保田は1人のお客さんを賃貸マンションに案内することになっていた。いわゆる内見というやつだ。昼過ぎにお客さんが来店すると、久保田は営業車でお客さんをマンションに案内した。転職で地方から都内に引っ越すという若い女性で、転職先の会社まで乗り換えなしで通勤できるこの物件の4階の部屋が気になっているという。

事前にマンションのオーナーから受け取った鍵を開けて部屋に入ろうとしたが、なぜかドアが開かない。どうやら、オーナーが間違えて別の部屋の鍵を渡したようだ。慌ててオーナーに電話したがつながらず、結局お客さんにその部屋を見てもらうことができなかった。

クレームになるのではないかと危惧したが、階数は違うものの、その物件の同じ間取りの部屋を見てもらうことができたし、お客さんはあまり気にしていないようで安心した。

お客さんが帰ったあと、久保田は例の物件のオーナーに再度電話をした。部屋の鍵を間違えたことに対して軽く文句でも言ってやろうと思っていたが、文句を言われたのは久保田の方だった。

「久保田さん、205号室って言ったよ」

「え? 405号室ってお伝えしませんでしたっけ?」

慌てて手帳をめくると、オーナーに電話した日のページに「205号室を希望」とたしかに書き残されていた。お客さんは4階の部屋を希望していたのに、自分の勘違いでオーナーに違う部屋を伝えていたのだ。

「うわ、これは僕のミスですね。本当に申し訳ありません!」

さすがに謝るしかなかった。

「分かってくれたならいいよ。これからは気を付けてね」

「いや、本当に申し訳ありません」

電話を切り、深いため息をついた。まるで1年目の新人がやるようなミスをしてしまった。お客さんに迷惑をかけただけではなく、オーナーとの信頼関係も壊してしまうところだった。そういえば、最近の自分はつまらないミスが多い。やっぱり、お笑いの世界に戻りたいという気持ちがあるせいだろうか……。

自己嫌悪に陥っていると、背中に視線を感じた。後ろを振り返ると、そこに社長が立っている。

「久保田、ちょっといいか」

いつも笑顔を絶やさない社長がいつになく真剣な顔をしていた。

●久保田には夢と現実の折り合いをつける“決断”ができるのだろうか。 後編【手取りが18万円に減っても…仕事に集中できない社員への“意外な提案”とはにて、詳細をお届けします。

※複数の事例から着想を得たフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。

大嶋 恵那/ライター

2014年立命館大学大学院経営管理研究科修了。 大手人材会社などで法人営業に従事したのち、株式会社STSデジタルでライター業に従事。 現在は求人系、医療系、アウトドア系、ライフスタイル系の記事を中心に執筆活動を続けている

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