手取りが18万円に減っても…仕事に集中できない社員への“意外な提案”とは

<前編のあらすじ>

久保田大志(38歳)は、大学の漫才サークルで知り合った宮田と「ホプキンス」というコンビを組んでいたが、最後までお笑い芸人としてブレークすることはできず、3年前にコンビを解散し不動産会社で働いていた。

ピン芸人となった宮田と久しぶりに再会し、「もう一度一緒にやらないか?」と再結成を持ちかけられたことから、久保田は仕事に身が入らなくなりミスをおかしてしまう。そんな久保田を社長が呼び止めて……。

お笑いの世界に戻りたい

久保田は社長に連れられ、会議室に入った。他の社員がいるところで話すのは避けたいからに違いなかった。

やはり、オーナーに対して失礼を働いてしまったことはまずかったようだ。不動産賃貸の仲介というのは、オーナーの協力なくしては成立しない。久保田は社長から厳しくしかられるのを覚悟した。

しかし、社長の口から飛び出したのは意外な言葉だった。

「久保田、お前最近なにか悩んでるだろ?」

「え? なにか悩んでるって……」

怒られることを覚悟していたので、久保田は面食らった。まさか、こんなことを言われるなんて思ってもみなかった。

「俺もいろんな社員を見てきたから、なんとなく分かるよ。最近のお前は仕事に身が入っていない。でも、さぼっているわけじゃない。なにか悩みがあって仕事に集中しきれていない気がする」

図星だった。久しぶりに宮田と居酒屋で話して以来「お笑いの世界に戻りたい」という気持ちがどんどん大きくなって、それが仕事の妨げになっているのを感じていた。

「悩みがあるなら、言ってほしいと思っている。そのまま抱え込んでいると、悩みは大きくなるばっかりだぞ」

社長はいつになく真剣な表情を浮かべている。そういえば、自分を面接してくれた時もこういう顔をしていたような気がする。

久保田は覚悟を決め、自分の気持ちを率直に社長に伝えた。

まだ漫才に未練があるということ、かつての相方と飲んでから「お笑いの世界に戻りたい」という気持ちが大きくなっていること、漫才に未練はあるけど会社を辞める覚悟がないということ、気持ちが揺れているせいか仕事に集中することができていないことを正直に話した。

そんな久保田の話を社長は黙って聞いてくれた。

「話してくれて、ありがとうな」

「いえ、せっかく採用していただいて申し訳ないのですが、これが今の僕の気持ちなんです」

「なんとなく、そうじゃないかとは感じていた。俺も昔バンドやっていたから、夢を諦められない気持ちはよく分かるよ」

「社長、バンドやってたんですか?」

それは初耳だった。

「高校生のときからずっとバンドをやっていて、大学を卒業しても『売れないバンドマン』を続けてたよ。両親はずっと応援してくれていたけど、30歳を過ぎた頃におやじから『もういいだろ』と説得されて、おやじがやっていたこの会社の後を継いだってわけだよ。俺がバンドやってたことを知ってる社員はもうみんな退職してるから、お前が知らないのは仕方ない。決してカッコ良い話じゃないし、この話、他の社員には黙ってろよ」

社長はそう言って苦笑した。そこから、社長と今後についていろいろと話し合った。

漫才に未練があるものの、安定した収入を得られている今の仕事を辞める覚悟がないというのが久保田の悩みだったが、その悩みは「だったら、今の仕事を続けながら漫才をやればいい」という社長の一言で吹き飛んでしまった。

「でも、さすがに不動産仲介の仕事を朝から夜までやって、そこから漫才の練習というのは体力的に……」

「なんでフルタイムで働くことを前提にしてるんだよ? 時短勤務って聞いたことがないのか?」

「え? うちに時短勤務の制度ってありましたっけ?」

「ないよ。ないけど、お前のために新しく時短勤務の制度を作ればいいだけの話だろ」

あまりにもあっさりと言うものだから、久保田は一瞬ポカンとしてしまった。この社長は、自分のために会社のシステムを変えてくれるというのだろうか。

「最近は時短勤務を導入している会社も多いし、良いきっかけだよ」

社長は楽しそうに笑っている。

そこからはとんとん拍子に話が進んだ。

フルタイムではなく時短勤務なので給与は減るが、正社員の身分は保証する。もしもフルタイムに戻りたいということであればいつでも戻れる。漫才だけで食えるようになった時は会社の就業規則に基づいて退職することが可能。そんな話が1時間足らずの間に決まった。

そして、久保田はかつての相方である宮田とホプキンスを再結成し、お笑いの世界にカムバックした。

「ホプキンス」再結成!

復帰した翌日には、ごく小さな枠ではあるものの、WEBニュースで『ホプキンス、3年ぶりに復活!』と記事になっていた。

フルタイムのときに比べて2時間早く仕事を終える時短勤務に変わったので、会社からの給与は5万円ほど減った。正社員である事に変わりはないので、これまで通り給与から社会保険料などが引かれる。そのため、手取りは18万円まで減ってしまった。外食を控え、ビールを発泡酒に変更した。生活は少し質素になってしまったが、夕方から漫才の練習ができるのはありがたかった。

宮田は「『ホプキンスが復活するなら協力するよ』と言ってくれている人がいる」と言っていたが、それはうそではなかった。解散前からお世話になっている劇場のオーナーがホプキンスのために舞台の仕事を世話してくれた。給与が減った分を完全にカバーする程ではなかったが、復帰してからすぐに仕事があるのはありがたかった。

復帰してからしばらくは普通の漫才をやっていたが、宮田から「お前、不動産屋で働いてるんだろ。それを生かして『不動産仲介あるある』とかやってみようや」と言われ、試してみることにした。

ダメもとで始めた「不動産仲介あるある」だったが、意外なことにかなり好評を博した。劇場で披露しても、他のネタよりもお客さんの反応が良い。久保田と宮田は手応えを感じていた。そして「不動産仲介あるある」のネタを引っ提げて、日本で最も有名な漫才のコンテストに出場することになった。

いくつもの予選を勝ち抜き、準決勝も突破した。決勝戦は地上波で全国に中継される。ホプキンスがテレビのゴールデンタイムに進出するのは解散前も含めて初めてだった。

3年間のブランクを乗り越え、ビッグチャンスをつかんだのだった。もしも優勝できれば、人気お笑いコンビの仲間入りだ。

エール

決勝戦を数日後に控えたある日、久保田はいつも通り時短勤務で働いていた。デスクでメールチェックをしていると、何人もの同僚から声をかけられた。

「いよいよ明日だね」

「テレビで見ますよ!」

「優勝したら友達に自慢するわ」

久保田は、本当に自分は幸せ者だと感じていた。引退後のキャリアがうまくいかない元お笑い芸人はたくさんいる。

しかし、自分はこんな素晴らしい人たちがいる会社に巡り合い、復帰の後押しまでしてもらった。

そして、人生の大一番を控えた今日、こんな温かい言葉をかけてもらっている。この不動産会社で過ごした日々を思い出すうちに、久保田は目頭が熱くなるのを感じていた。

社長が外出から戻ってきた。何か言うわけでもなく、真剣な表情でこちらを見ている。

そういえば、久保田が採用面接された時も、時短勤務で仕事と漫才を両立することが決まった時の話し合いの時も、社長は今のような真剣な表情をしていた。

社長と目が合った。社長は何も言わず、ゆっくりとうなずいた。それは、かつて音楽の夢を諦めた社長からの、漫才の夢を諦めきれない久保田への静かなエールに違いなかった。

※複数の事例から着想を得たフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。

大嶋 恵那/ライター

2014年立命館大学大学院経営管理研究科修了。 大手人材会社などで法人営業に従事したのち、株式会社STSデジタルでライター業に従事。 現在は求人系、医療系、アウトドア系、ライフスタイル系の記事を中心に執筆活動を続けている

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