伊藤計劃『ハーモニー』は漫画版も傑作 より残酷で情動的に心を揺さぶる

2009年3月20日──小説家の伊藤計劃さんが34歳の若さで亡くなられてから15年が経ちました。

年数百の漫画を読む筆者が、時事に沿った漫画を新作・旧作問わず取り上げる本連載「漫画百景」。一八景目は、『ハーモニー』です。

本作は伊藤計劃さんによる傑作小説をもとにした作品。オリジナルの描写も取り入れて、原作を補完した隠れた名コミカライズです。

前述したように、伊藤計劃さんの命日であるこの日に、改めて読みたい漫画として紹介します。

伊藤計劃『ハーモニー』を三巷文がコミカライズ

漫画『ハーモニー』は、原作小説を手がけた伊藤計劃さんと、彼の遺作をアニメ映画化するProject Itohが原作。漫画を三巷文さんを担当した作品です。

2015年4月から創刊30周年記念企画として、アニメ雑誌『月刊ニュータイプ』で連載開始。後に同誌のWeb版「WebNewtype」に移籍して連載を継続。2019年に完結しています。

人が死なないユートピアと、その極限

物語の大筋は原作小説に準拠しています。

核兵器による世界的な混乱と放射能汚染、加えて疫病の蔓延による人類滅亡の危機──大災禍(ザ・メイルストロム)が発生した後の世界。人類史に残る惨禍を教訓としてつくりあげた、超高度な医療社会が舞台です。

ざっくり噛み砕いて言うと、病気をほぼ駆逐したことで、有史以来最も人が死なない穏やかな社会。一方で、人間はすべて社会を支える貴重・希少なリソースとして存在し、公共に貢献しなければならない。皆で喜びも苦しみも共有し、全員で調和するべきという社会です。

そんな社会に嫌気が差している少女・御冷ミァハが、同級生の零下堂キアン、そして主人公・霧慧トァンに、周囲への反抗として集団自殺を提案。3人は決行するも、首謀者のミァハだけがこの世を去ることに。それから13年後。世界中で6582人もの人間が、同時刻に自殺を試みる不可解な事件が発生し、大災禍以来の混乱が人々を襲います。

トァンはこの頃、各地の住民の健康状態を監察する世界的組織の一員になっており、事件の真相を追う任務に着任。調査を進める中で、事件の影に死んだはずのミァハの影が見え隠れすることに気づいて……と、ここまでが簡単なあらすじとなります。

コミカライズでは原作の4章+エピローグをベースに、各章の内容を前後させて構成を組み直しつつ、ところどころでオリジナルの展開と独自解釈の描写を入れています。

では、何が原作と違って、どこに本作らしさが宿っているのかを以後考えていきます。以降、ラストを含むネタバレを含むので、未読の方はご注意ください。

トァンとミァハの“手”に注目

コミカライズが原作と最も異なるのは登場人物の造形です。

主人公のトァンを筆頭に、各人大なり小なりアレンジが加えられており、終盤に出てくるウーヴェはほぼ別人のようです。これによって関係性にも変化が生まれています。本稿ではトァンを中心に見ていきましょう。

まずは学生時代のトァン。ことミァハの対する感情の揺れを感じる点が多いです。

例えば、ミァハに手の甲への口づけを受ける場面。原作ではすぐに手を引っ込めたものの、「冷たい」「不快ではなくて」と、つとめて冷静な感想が綴られています。しかし漫画では、「な…っ」と声にならない声をあげ、手を引っ込め赤面しており、かなり印象が違います。

続く学校の昼休みの一幕で、ミァハが唐突にトァンの胸を鷲掴みにして、滔々と社会の不可思議さを語る場面(原作ではミァハ、キアン、トァンの3人で話していますが、ミァハとトァンの2人だけのシーンに変更)。ここでもトァンの動揺を強調しています。同時に社会への憎悪を募らせるミァハの孤独も印象深い。

さらに、コミカライズのオリジナルとして、トァンがミァハの手の甲に口づけをするシーンがあります。

以降も要所で2人の手に関する演出があり、これはラストにもつながる要素です。コミカライズでは2人の“手”を通して関係性を示しているので、注目してみてください。

キアンと父・ヌァザの関係性にも変化が

トァンのキアンに対する言動と態度の違いもポイントです。

業務上の背信行為がバレて謹慎を食らい、日本への強制送還の憂き目にあったトァンが、久しぶりにキアンと再開した列車での場面。旧友がかつて憎んだ社会の規範に染まっていることへのいらだちを、苦い表情と「あなたは変わったわキアン」という台詞であらわにする、原作にはない描写があります。

その後のトァンとキアンの再会を祝したささやかな食事のひととき。コミカライズではキアンがトァンの無事を喜び、純粋な笑顔を向けて嬉しいと話すなど2人の絆を再確認して、直後の惨劇を原作よりも強く劇的に演出しています。

また、唐突にこの世を去ったキアンを前に動揺を隠せず、回想で必死に彼女の首から血が出るのを押さえる回想も挟まれています。

さらに、トァンと父・ヌァザの関係を補強する回想が挟まれ、共に行動する場面も増加。原作では割とあっさりと退場していった彼の存在感が強くなり、ラストのトァンの決断と動機も併せて補強しています。

総じて、トァンがより感情的な、人間らしい人物として描かれているのが印象的です。

トァンは最終的に、数少ない友人であるキアンとミァハ、父のヌァザを失います。ミァハに至っては自ら手にかけている。トァンをより人間らしく見せ、3人との繋がりをより強く描写した上での彼らとの別れですから、これは原作よりも残酷とさえ言える演出でしょう。

登場人物たちがビジュアライズされたことも相まって、より読者の感情に訴えかけてきます。これはコミカライズの大きな特徴です。

原作は伊藤計劃さんの類まれな想像力を、氏のロジカルで明晰な文体で楽しむことができ、最後の最後で明かされるあの“タグ”の意味も、文字でこそ最大限に意表を突くものです。原作及びコミカライズ、どちらも傑作であることは間違いありません。

伊藤計劃へのインタビューから考えるコミカライズの特徴

最後に、コミカライズがなぜ登場人物たちに強く焦点を当てるアプローチを取ったのかを考えてみます。

手がかりになるのが、原作小説新版の巻末に掲載されている、原作者・伊藤計劃さんへのインタビューです。

伊藤計劃さんのキャラクター造形について、“ロジックとエモーション”という言葉で語られているパートがあり、本人の口から「実を言うとエモーションの部分が一番難しいんです」「『虐殺器官』も『ハーモニー』も、自分のことをどこか後ろから見ているようなところがある人が主人公で。僕自身もそういうところがあると思うんですよね。テンパってる場面でどうしてもテンパれないという(笑)」と語られています。

“テンパってる場面でどうしてもテンパれない”に当たるのは、ミァハがトァンの手の甲に口づけをした場面が象徴的ですね。原作では冷静で、コミカライズでは動揺している──こうした細かな違いを積み重ねて、原作からかけ離れないまま、コミカライズの独自性を生み出すことに成功している本作は、原作の補完すると同時に新たな解釈を提示することに成功しています。

原作に沿う部分とオリジナリティを入れる部分のバランス感覚が卓抜している、なかなかお目にかかれない名コミカライズです。

もし原作は読んだことがあっても、コミカライズは未読という方がいましたら、ぜひ読んでいただきたいです。

どちらも未読の方は、今から本作に触れられるのだからある意味羨ましい……。コミカライズから入るもよし。原作を読んでから読むもよし(本稿では触れていませんが、劇場版アニメもあります!)。

いずれも心揺さぶる体験が待っているはずですよ。

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