富山城の外堀跡発見、江戸後期の絵図と合致 前田利長が整備、位置・規模判明

富山城の外堀跡が見つかった発掘現場=富山市総曲輪(富山市埋蔵文化財センター提供)

 富山市総曲輪のビジネスホテル建設予定地から、江戸時代初期の富山城の外堀跡の一部が見つかった。発掘調査を行った富山市埋蔵文化財センターによると、富山藩が成立する前の1605(慶長10)年に、加賀藩2代藩主の前田利長(1562~1614年)が整備したとみられる。外堀は江戸後期の富山城下町の絵図に描かれていたものの、明治期以降に埋め立てられた。今回の調査でその存在が確認され、詳しい位置や幅、深さといった規模も分かってきた。

 発掘現場は富山城東側の城址大通り沿いで、向かい側に富山城址公園の千歳御門(ちとせごもん)がある。以前はコインパーキングだった場所で、同センターなどが今年1月から約104平方メートルを発掘し、外堀跡を発見した。

 外堀は家老など藩の重臣の屋敷があった三ノ丸と、富山藩10代藩主の前田利保(としやす)(1800~59年)が隠居所として建てた「千歳御殿」のあった東出丸の境に、東西方向に掘られたもの。調査で深さが3.2メートル、幅が17メートル以上だったことが分かった。

 発掘現場からは、前田家の家紋「梅鉢文(うめばちもん)」が入った直径13.5センチの軒丸瓦も出土した。文様の特徴から、利長が1605年に富山城を自身の隠居城として整備した時のものとみられる。同センターの鹿島昌也主幹学芸員は、外堀も同時期に造られたとし「藩政期以前の富山城で土地がどう利用されていたかが分かる貴重な発見」と言う。富山市郷土博物館の中本八穂(やつほ)主幹学芸員は「絵図の記述の正しさが判明したことは大きな成果。良い場所を掘り当てたと思う」と話した。

 利長が整備した外堀跡は、2014年に富山城南側の旧総曲輪小学校跡地(現総曲輪レガートスクエア)でも見つかっている。外堀はいずれも既に埋め戻されている。

外堀跡から出土した軒丸瓦。前田家の梅鉢文が入っており、利長が富山城を整備した慶長期のものとみられる(富山市埋蔵文化財センター提供)

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