谷山浩子「あいつ、いなくなればいいのにと思ったことも」『オールナイトニッポン』で培われたライブ感

谷山浩子 写真/能美潤一郎

シンガーソングライター・谷山浩子の歌声に魅了されない者はいない。『まっくら森の歌』や『恋するニワトリ』といった、『みんなのうた』(NHK/Eテレ)でおなじみの楽曲から、斉藤由貴へ提供した楽曲『土曜日のタマネギ』など、アイドルから声優まで幅広いプロデュースを手掛けている。今年でデビュー52年目を迎えるシンガーソングライター、谷山浩子の人生の転機とは?【第2回/全6回】

「人前に出るのが苦手」と語る谷山浩子さんだが、『101人コンサート』は、観客100人と谷山浩子さん1人を合わせて「101人」という発想で、「屋根と電気さえあればどこでも行きます」というコンセプトで、全国各地で行われたコンサート。87年から01年まで行われた。

さらなる転機ともいえるのが『オールナイトニッポン』(以下、オールナイト)のパーソナリティだった。最近は星野源やオードリーといったタレントがパーソナリティを務めている歴史あるラジオ番組。谷山さんがパーソナリティに就任したあとは、驚きの連続だったという。

「初回の放送が終わると、リスナーの方から大きな紙袋がパンパンになるくらいハガキが届きました。それで第二回の放送の時、事前にハガキに全部目を通して、番組の中で読むネタも選んでから行ったんですが、放送作家さんが“事前に準備をしたらつまらなくなる”って、それ以来ハガキをいっさい見せてくれなくなったんです」

いきなり初見のハガキを読むことに

あらかじめ、スタッフによって選別されたハガキを谷山さんがいきなり読むスタイルは、生放送ならではのライブ感もあり若いリスナーたちに支持された。

「“匿名希望”って書いてある方のお名前をうっかり読んでしまうとか失敗もあったのですが、なにも準備しないことから出てくる面白さを知りました。ただ番組自体は私にとってはすごくストレスで、本番中に手足が痺れたりしていました。

あのときは、出てきたものを断るのは負けみたいな気持ちがあって、下ネタにも応えていました。私の放送はビートたけしさんの後だったのですが(当時の『オールナイトニッポン』は1部と2部があり、それぞれ異なるパーソナリティが担当していた)、たけし軍団の人たちが本番中のスタジオに、下半身になにも穿いていない状態で踊りながら入ってきたことがあった。そのときはADの女の子がものすごい悲鳴を上げていた中で、冷静なふりをして実況をしていました(笑)」

楽しかったというパーソナリティだったが、時代の流れで辞めることを決意したという。

「オールナイトのパーソナリティは4年間やらせていただいたのですが、最後の1年間はラジオ局の方針で、2部は生放送ではなく録音になったんですね。そうしたらテンションが上がらなくて、つまらなくなってしまった……。それを感じ取ったのか、ディレクターの方が“もし辞めたかったら、辞めてもいいんだよ”って言ってくれたので、卒業しましたね」

「あいつ、いなくなればいいのに」と感じたことも

パーソナリティ時代で一番記憶に残っていることを聞いたら、意外な答えが返ってきた。

「深夜だったので、むちゃくちゃでしたね。ディレクターには無理なことをしょっちゅう言われていたので、“あいつ、いなくなればいいのに”って思っていました(笑)。麻雀漫画を描いている方がゲストだったとき、ヘッドホンごしに“麻雀牌にパンツをかぶせるのなら、何色がいいですかって質問しろ”って言われたり」

4年間パーソナリティを務めた『オールナイトニッポン』は、その後のファン層拡大にもつながった。

「『101人コンサート』を見に来られたお客さんの中で、“『オールナイトニッポン』を聞いていました”っていう人がすごく多いんですよ。それ以前の一部のファンの方には、“ラジオを始めた時にファンを辞めました”って言われたこともあったんですが。でもラジオの経験が、コンサートのトークにすごく役立ったって思います」

毎週生放送でトークをするという経験は、谷山さんに変化をもたらした。

「それまでのコンサートでは、事前にトークの内容も全部決めていた。それが、『101人コンサート』から、なにも決めないでとにかく“その場に自分を置く”ことを優先したら、すごく楽しくなってきた。それはオールナイトで経験した、ライブ感が活きていると思います」

谷山浩子 写真/能美潤一郎

谷山浩子(たにやま・ひろこ)
1956年8月29日生。神奈川県出身。シンガーソングライター。中学在学中からオリジナル曲を作り始め、1970年にベイビー・ブラザーズのシングルで作詞作曲家としてデビュー。1972年4月25日、アルバム『静かでいいな 〜谷山浩子15の世界〜』とシングル『銀河系はやっぱりまわってる』で一度目のデビュー。1974年『第7回ポピュラーソングコンテスト』で『お早うございますの帽子屋さん』が入賞。同曲で翌年、再デビュー。1977年シングル『河のほとりに』をリリースし、3度目のデビュー。以後、「オールナイトニッポン」をはじめとするラジオ番組のパーソナリティ、童話、エッセイ、小説の執筆、全国各地でのコンサートなど、精力的に活動中。

© 株式会社双葉社