『デューン 砂の惑星PART2』は映画史に刻まれる作品に 超絶的スペクタクルと“倫理的葛藤”

『スター・ウォーズ』シリーズや『風の谷のナウシカ』、『アバター』シリーズなどにもインスピレーションを与えたと噂されるなど、多くのSF作家や映像クリエイターに決定的な影響を及ぼした、フランク・ハーバートのSF小説『デューン』シリーズ。かつて、アレハンドロ・ホドロフスキー監督の映画化企画が断念され、デヴィッド・リンチ監督による映画化が成し遂げられるも、さまざまな事情で十分に世界観を表現しきれなかったように、大スケールでの映像化が困難な、超重量級の題材としても知られている。

そんな、映像化には難度が高いといえる『デューン』シリーズの新たな映画化に手を挙げたドゥニ・ヴィルヌーヴ監督のシリーズ第1作となった超大作が、『DUNE/デューン 砂の惑星』(2021年)だった。最新鋭の視覚効果技術や、ハンス・ジマーによる、これまでに聴いたことのないような繊細かつ大胆な音楽世界、隅々にまで行き届いたヴィルヌーヴ監督の美意識など、複数の点で観客を圧倒する内容となった。

ただ、そんな完全無欠、水も漏らさぬ覚悟で臨んでいたように思える『DUNE/デューン 砂の惑星』にも弱い点があった。それは、もともと原作小説の展開が、映画一作のボリュームに対応するようなものではなかったというところだ。主人公である、公爵の子息ポール・アトレイデスが、皇帝を抱き込んだハルコンネン男爵の一族の陰謀により、砂漠の惑星で一族をほぼ殺されるという悲劇を経験し、一面の砂漠のなかで再び立ちあがろうとするまでが、その主な内容であり、一つの映画作品としてはカタルシスに欠けたものに仕上がってしまっていることは確かなのだ。

それでもヴィルヌーヴ監督が原作のリズムを重視し、果敢に正面から映画化に挑んだ姿勢、信念の強さは評価されるべきだろう。そして、そんな我慢といえる時期をくぐり抜けたことで、続編たる『デューン 砂の惑星PART2』は、だからこそ非常に大きな満足感を味わえる第2作として完成されることとなった。ここでは、そんな本作『デューン 砂の惑星PART2』がどんな一作となったのか、映画監督ドゥニ・ヴィルヌーヴにとって、また時代のなかでどのような位置に置かれるのかを考察していきたい。

人間の精神を拡張し、宇宙船の燃料にもなるという貴重なスパイスが産出される“砂の惑星”こと「惑星アラキス」。そこで一族を虐殺されるも生き残った、ティモシー・シャラメ演じるポール・アトレイデスと、その母レディ・ジェシカ(レベッカ・ファーガソン)が、惑星の先住民である砂漠の民に助けられるところから、本作は始まる。当初ポールらは、スパイスを奪い惑星を支配しようとする侵略者のスパイかと疑われていたものの、砂漠の民との生活と儀式を経験するなかで、二人は居場所を確保するようになっていく。

砂漠の民のなかには、スティルガー(ハビエル・バルデム)のように、伝えられている予言を基に、ポールのことを、民全体を導く“救世主”だと考える者たちもいる。そんなポールは、共通の敵であるハルコンネン一族によるスパイス採掘を、砂漠の民の戦士たちと妨害し、軍の勢力を少しずつ削いでいくことになる。そんな日々において、戦士の一人であるチャニ(ゼンデイヤ)とは、特別に親密な関係になっていく。

本作のストーリーは、そんな日々を描きながら、ポールが砂漠の民を率いて復讐の決戦に向かい、一つの大きな決着が訪れるまでを表現していく。ポールが砂漠で振動するもの全てを飲み込んでいく巨大な生物「砂虫(サンドワーム)」を乗りこなしたり、レディ・ジェシカが謎の水を飲まされて預言者として開眼するなど民族的な通過儀礼も、重要なイベントとして配置される。

ここで表現しようとしているのが、原作と同様に、現実の世界にもある資源の収奪や虐殺、植民地支配や民族的な衝突、宗教的な対立や不寛容など、軍事力を持った入植者たちと、それに抵抗する先住民という、世界のさまざまな地域で起きてきた歴史の反映であることは言うまでもない。また、環境に順応し自然のサイクルのなかで生きていく考え方と、経済活動のために自然を支配し消費行動を繰り返す考え方との違いを際立たせてもいる。

『アバター』(2009年)の物語がそうであるように、ポールは侵略側からやってきた存在でありながら、先住民の生存や権利を守る戦いを率いるようになっていく。そして、弱い側が強者を支配する革命を起こすべく尽力していくのだ。しかし、彼が劣勢をひっくり返すべく利用するのが、核兵器だという点に至って、物語に不穏な空気が漂い始める。

ある試練を経て、未来予知の能力に目覚めたポールは、この世界において法により使用が禁止されている核兵器を使用しなければ勝利はあり得ないことを知っていて、それを選ばざるを得なかったのは確かだろう。しかし、そうやって得た勝利を得ようとするポールの陣営は、果たして正義なのかということに、観客は思いを巡らせることになるはずである。

そんな逡巡を感じさせたまま、本作は大規模な戦闘が展開されるシーンへとなだれ込む。巨大な砂虫が暴れまわり、砂漠の民の戦士たちが死を恐れずに突き進んでいく光景の凄まじさは、映画史に刻まれるような、超絶的なスペクタクルとして表現されている。これを鑑賞するためだけでも、映画館に駆けつける意義があると言っても良いと思えるほどである。そして、そんな圧倒的な場面をよりカオティックにしているのが、前述した“倫理的葛藤”という、精神的な部分なのだ。

ポールは復讐する過程で、地位や人望、そして大量破壊兵器での虐殺に手を染めなければならなかった。最終的には自分の心や愛する人の心までをも裏切り、政略的な判断を選ぶこととなる。われわれ観客は、悲劇のポールに心を寄せて一度は復讐を願ったはずであるが、結局は一周して、力が力をねじ伏せる蛮行の繰り返しを目撃しただけではないのか。そんな呪われた無常の運命へと突き進まざるを得ない人間の業(ごう)と、現実の人類史の本質部分の暗示こそが、前作、本作でたどり着いた境地だったのではないか。観客は、ラストシーンでそんな狂気から去ろうとする人物にのみ、心を寄せられなくなっていくのである。

映画史においては、このような心をかき乱される戦争、宮廷劇を描いた名作として、ロシアの巨匠セルゲイ・エイゼンシュテインの『イワン雷帝』「第1部」(1944年)、「第2部」(1946年)がある。民衆を率いて外敵から国を守った実在の英雄が、後年には猜疑心に支配され、同胞を粛清していくという価値の転倒が描かれるのだ。大事な人々を守ろうとする自衛の戦いのための力が、いつしか理性を欠いた、とめどない暴力へと変化していく。

現在、現実のロシアが本作のように核兵器を保有し、ウクライナを侵攻しながら諸外国に核使用をちらつかせることで牽制していることを考えれば、本作で描かれる悪夢的な破壊の光景と、新たな敵との対峙による、さらなる悲劇の予感は、まさに現在の世界における恐怖をそのまま描いていると思わせる。まだまだ続く原作の物語を、ヴィルヌーヴ監督が映画シリーズとして手がけていくのかは未定ではあるが、少なくとも現時点までの2作において、当初提示したテーマや、現在われわれを取り巻く世界の問題は、ひとまず描ききったといえるのではないだろうか。

ヴィルヌーヴ監督の表現するビジュアルは、彼のSF映画『メッセージ』(2016年)におけるシンプルなフォルムの宇宙船に代表されるように、極限まで削ぎ落としたモダンさが特徴的だ。しかし、同じ題材を手がけていたアレハンドロ・ホドロフスキー監督や、デヴィッド・リンチ監督らの作風に比べると、鮮烈なイメージに欠けるところがあったのは確かである。

ファッションのトレンドにおいて、2010年代に極度にシンプルな「ノームコア」と呼ばれる装いが世界的に流行したように、ヴィルヌーヴ監督は無駄な装飾を剥ぎ取っていくようなミニマルスタイルの時代を映画というフィールドで体現する存在だったように感じられる。しかし、その後またデコラティブな方向へと時代の気分が変化したことを象徴するように、シンプルモダンをさらに先鋭化させた前作『DUNE/デューン 砂の惑星』の表現は、いささか時代遅れな面があったように感じられた。

しかし本作では、前述したようなカオティックなスペクタクルや、倫理観の崩壊、オースティン・バトラーが演じる、フェイド=ラウサ・ハルコンネンに代表される破滅的な生き方という、映像や物語、思想などの要素がより複雑に絡み合うことで、デザイン部分のシンプルさが、全体のなかで中和的な役割を果たし、結果的に完成度を高める結果になったようにも感じられる。

気鋭の監督からベテランの域となった、いまのドゥニ・ヴィルヌーヴ監督が、これからどのような方向に進むのか、どんな題材でどういったテーマで後続のクリエイターたちと張り合っていくのかは楽しみだが、前作と本作『DUNE/デューン 砂の惑星』2作が、彼のこれまでの映像作家としての集大成になったと同時に、映画史のなかで一つの重要な位置を占めるものとなったことは確実だろう。

(文=小野寺系(k.onodera))

© 株式会社blueprint