フリッツ・ツヴィッキー、暗黒物質の存在を予言したスイスの知られざる天才

当時の最新型「シュミット望遠鏡」で宇宙観測中のフリッツ・ツヴィッキー(1936年撮影) (Archive Palomar Observatory/Caltech)

スイスが生んだ天才、フリッツ・ツヴィッキー。20世紀最高の頭脳と称される天体物理学者の軌跡を紹介する。 swissinfo.chは定期的に、スイス国立博物館ブログから選んだ、歴史をテーマとする記事を配信しています。ブログはドイツ語を中心にフランス語と英語でも書かれています。 スイス国籍の天体物理学者、フリッツ・ツヴィッキーは1898年2月14日、ブルガリア・ヴァルナで生まれた。両親は1886年にスイス東部グラールス州モリスからブルガリアに移住し、グラールナー・テュッヘリ(グラールス名産の伝統的なペイズリー柄のスカーフ)などの布地を販売していた。もし父フリードリンが望めば、この商売を継いでいただろう。だがそうはならなかった。6歳になり、スイスの学校に通うために祖父母に預けられたツヴィッキーが興味を示したのは、商売ではなく科学だった。 ツヴィッキーは連邦工科大学チューリヒ校(ETHZ)で数学と実験物理を学んだ。決して付き合いやすい人物ではなく、大学の講義でも横柄で生意気な態度で教員をよくイラつかせた。その性格は生涯変わらなかったという。1922年、ETHZで自然科学の博士号を取得した。長い科学探求の旅の始まりだった。 スイス国籍の天体物理学者、フリッツ・ツヴィッキーは1898年2月14日、ブルガリア・ヴァルナで生まれた。両親は1886年にスイス東部グラールス州モリスからブルガリアに移住し、グラールナー・テュッヘリ(グラールス名産の伝統的なペイズリー柄のスカーフ)などの布地を販売していた。もし父フリードリンが望めば、この商売を継いでいただろう。だがそうはならなかった。6歳になり、スイスの学校に通うために祖父母に預けられたツヴィッキーが興味を示したのは、商売ではなく科学だった。 ツヴィッキーは連邦工科大学チューリヒ校(ETHZ)で数学と実験物理を学んだ。決して付き合いやすい人物ではなく、大学の講義でも横柄で生意気な態度で教員をよくイラつかせた。その性格は生涯変わらなかったという。1922年、ETHZで自然科学の博士号を取得した。長い科学探求の旅の始まりだった。 ☟フリッツ・ツヴィッキーを紹介するTV番組(スイス公共放送) 1925年、27歳の時に米国に拠点を移す。名高いカリフォルニア工科大学(Caltech)に研究職を得たからだ(訳註:博士研究員から助教(1927年)、准教授(1929年)を経て、1942年に同大学の教授)。それからツヴィッキーは、暗黒物質の存在の予言(1933年)や、ドイツの天体物理学者ヴァルターと共同で行った超新星(1934年に共同で命名)の観測・分類・理論など、次々と目覚ましい成果を発表し、その度に学界をざわつかせた。 ツヴィッキーの主張やアイデアはしばしば批判の的になり、多くの科学者に嘲笑された。だがツヴィッキーが自身の考えを曲げることはなかった。事実、数年後、数十年後にようやく正しいと証明されたものもあったにせよ、その多くは正しかった。 第二次世界大戦終結後、ドイツ語を話す数少ない米科学者のツヴィッキーに、危険をはらむ任務の要請が届いた。それは、米軍事顧問として、独ウーゼドム島ペーネミュンデにあるナチスのミサイル開発基地を調査することだった。当時、独V2ロケットはどの米ミサイルよりも優れており、米国はそのドイツの技術力に追い付こうと焦っていたのだ。ツヴィッキーは、米国が投下した原子爆弾の影響を調査するために日本にも訪れ、そのすさまじい破壊力に強い衝撃を受けた。 だがそれでも、ツヴィッキーがロケット開発から手を引くことはなかった。地球の重力の縛りを克服することは可能だと確信し、そのためにまずは小さい物体を飛ばす計画を立てた。1946年12月、先端に手榴弾6個を装着したロケットを用いた最初の実験を実施した。点火後しばらくして手榴弾が爆発し、鉄球を重力から解き放ち宇宙空間に飛ばす想定だった。だが手榴弾に点火せず、この実験は失敗に終わった。 米軍はコスト面を理由に2機目のロケットを調達しなかったため、実験は断念せざるを得なかったが、ツヴィッキーは、この方法で重力を克服できるという信念を曲げなかった。変わり者で有名だったツヴィッキーはますます孤立していった。仲間の多くが彼を敬遠し、過小評価し、アイデアを否定し続けた。さらに1950年代には、人々の関心は戦後の繁栄を楽しむことに移り、ロケットや爆弾は急速に忘れ去られていった。 だが1957年10月4日、ソ連が人工衛星スプートニクの打上げと地球周回に成功したことで、事態は一変した。ソ連に先んじられた米国は大きな衝撃を受けた。 ☟1957年のスプートニク1号の打上げを報じるTV番組 宇宙・ロケット開発は再び政治の重要項目となり、またもやツヴィッキーに声が掛かった。米軍事顧問に戻り、今度はあっさりとロケットを調達できた。米国は、宇宙の覇権競争に何としても負けるわけにはいかなかったからだ。 ツヴィッキーが1946年に失敗した実験に再挑戦し、初の人工物体「人工衛星ゼロ号」の打上げと鉄球の宇宙空間への放出に成功したのは、スプートニクの打上げ成功からわずか12日後だった。だがその時、この孤高の天才は既に先の計画に考えが及んでいた。「次はもう少し大きなものを飛ばす。次いで観測機器を搭載した宇宙船、最後は我々自身だ」。かくしてこの成功により、ツヴィッキーの考えが正しかったことが証明され、その理論と解析は人類の宇宙開発に大きな弾みを付けた。 1974年、ツヴィッキーは米カリフォルニア州パサデナでこの世を去った。今は祖国スイスの故郷グラールス州モリスに眠る。彼が残した発見やアイデアのリストは極めて膨大であり、限られた紙面でその全てを記すことはとてもできない。だがツヴィッキーは紛れもなく20世紀最高の天体物理学者の1人だった。と同時に、今日に至るまで、世界で最も過小評価され続けている科学者の1人でもある。 スイス国立博物館のオリジナル記事(ドイツ語)はこちら ドイツ語からの翻訳:佐藤寛子、校正:ムートゥ朋子

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