“邪道姫”工藤めぐみのプロレス人生

【WEEKEND女子プロレス♯4】

写真:新井宏

“邪道姫”のニックネームでプロレス界に絶大なインパクトを残した工藤めぐみ。しかし、意外にもレスラーとしての実働期間は10年にも満たない。1986年8月に全日本女子プロレスでデビューし一度はプロレス界から去ったものの、FMWで復活を遂げてからは日本で初めての男女混合試合をおこない、対抗戦時代には団体の看板を背負い、女子レスラーとして初めての有刺鉄線デスマッチにも進出、引退試合では電流爆破デスマッチで壮絶な最後を飾った。大仁田厚の団体で活躍しただけに復帰してもよさそうなものだが、彼女は一度もリングに戻ることなく、それでいて大好きなプロレスとは関わり続け、現在はZERO1のGMを務めている。引退からもすぐ27年という工藤に、現役生活を振り返ってもらった。

「プロレスラーになろうと思ったきっかけは、クラッシュギャルズのブームがきたときですね。子どもの頃、父やおばあちゃんとテレビでよくプロレスを見ていました。父は空手をやっていて、おばあちゃんは相撲やボクシングをよく見ていたし、格闘技が身近にあったんです。それで私も興味を持つようになり、家族でプロレスを見ていくうちにブームが来ました。ちょうどそのとき、タイミングよく自分の年齢がオーディションを受けられる最初の年だったんですよね」

最初のオーディションでは不合格になった。クラッシュブームの真っ只中で、受験者数の多さにも圧倒された。

「受かった方ってアピールポイントがたくさんあって、惹きつけるものを持っているんですよ。でも私には何の特徴もなく、基礎体力もなく。それで何を改善すべきか自分なりに分析して、落ちた次の日から自分でメニューを作りトレーニングしました。その一年間は本当に長かったです」

写真:新井宏

そのかいあって、翌年、2度目のオーディションでついに合格、全女に入団した。デビュー後は同期の中でもっとも早くタイトルに挑戦するなどトップクラスを走っていた。が、本人にそういった自覚はまったくなかったという。

「ジャガー(横田)さんが現役を退かれてコーチになり、最初の教え子が私たちだったんです。一番と言っても、むしろ私が一番物覚えが悪くて、本当に手のかかる練習生だったんですよ。そのぶんキッチリと時間をかけて基礎をつけていただきました。当時は試合で勝ちたいとかよりも、ジャガーさんの顔に泥を塗ることはできないと思って、必死についていきましたね。同期と比べ劣っているからこそ、頑張らないといけなかったんです」

やがて巡業にもついていくようになった。これも同期では一番の早さ。だが、前情報が得られない分、戸惑いの連続。試合が終わっても新人の仕事は終わらない。試合、練習、そして永遠かと思われた雑用。24時間気を張っていなければならなかった。

「最初は前田薫(KAORU)と一緒でした。宿泊先に帰っても2人とも仕事が終わらず、こんな状況がずっと続くのかと思うと…。慣れないこと、人間関係にも疲れ果てて、心身ともにボロボロになってしまいました。本当の意味での女子プロレスの厳しさがわかりましたね」


真:新井宏

試合では胸骨を骨折。しかし、当時は多少のケガで試合をするのは当たり前。具合からしてすでに“多少のケガ”ではないのだが、若手の工藤に言い出せるはずもなく、プロレスをやめる決意をすることとなってしまう。

「プロレスが怖くなってしまいました。もう、すべてから解放されたい。そんな気持ちになって、全女をやめてしまいました」

当時は団体の選択肢などない。全女をやめるとはすなわち、プロレスからの引退を意味していた。

「引退後はプロレスを見ないようにしていましたし、自分は何をしたらいいのかわからず、無気力にただただ毎日同じことの繰り返しでした。それがふとしたことで保母さんのアルバイトをすることになって、ようやく目標が見つかりました。自分で資料を取り寄せ準備をし、ちゃんと資格を取って。その仕事がホントに楽しくて、ようやく進むべき道が見つかったと思いましたね」

気持ちに余裕が出始めると、避けていたプロレスが不思議と気になってくる。知人に聞いてみると、男女混合の団体ができたという。興味を持った彼女は会場に足を運んでみた。そこには自分がまったく知らない、全女とはまた別のプロレスが存在していたのである。大仁田が旗揚げしたフロンティア・マーシャルアーツ・レスリング、FMWだ。

「ひとつの大会に男子、女子の試合があって斬新だと思ったし、そこで初めてデスマッチというものを見ました。有刺鉄線ボードに選手が落ちていく姿に衝撃を受け、もっと見たいと思ったんですよね。そこで同じ頃に全女をやめた豊田記代(コンバット豊田)と天田麗文に連絡を取り、3人で観戦に行ったんです」

➡次ページ(プロレス復帰を決意・団体対抗戦がスタート・女子初の有刺鉄線マッチ)へ続く

写真:本人提供

ところが、当時のFMW女子はまだまだ黎明期とはいえ、全女出身の彼女たちからすれば許しがたいレベルだった。気がつけば、天田が客席を離れリングに向かっている。それを追うようにして工藤もリングに上がってしまった。「豊田ひとりが残ってしまって(笑)」

「こんなのプロレスじゃない。本当のプロレスを教えてやる!」元全女勢の乱入により、工藤はプロレス復帰を決意する。ではこのとき、彼女にはどんな思いがあったのだろうか。

「日常生活では感じられない興奮がありました。ライトの熱さや歓声。やっぱりこれはリングの上じゃないと味わえない。これがプロレスなんだと思って、ここにまた戻りたいと一瞬で思いましたね。2年間、練習もしてないし受け身も取ってないけど、またやると決めてからは基礎を取り戻すために3人で道場に通いまくりました」

自分の気持ちにウソはつけなかった。と同時に、仕事への未練もあったという。

「私は、子どもたちのかわいらしさにすごく助けられたんですよ。新しい道を子どもたちに見つけさせてもらったんです。だから、この子たちから離れるのはすごく寂しかったです。でも、そこを吹っ切って、中途半端なやめ方をして正面から見れずに避けてきたプロレスをもう一度やろうと決めました」

プロレスラーとして復帰し、FMW女子のレベルを上げるとの目的もありヒールから正規軍サイドに移った。男女混合団体で初めてのミックスドマッチも経験すると、女子プロ界は団体対抗戦時代に突入。口火を切ったのが、彼女の試合だった。92年9・19横浜スタジアムでの工藤&豊田組vsブル中野&北斗晶組。古巣・全女との闘いである。

「そんな日が来るとは思ってもいませんでした。というか、自分がやりたいと言ったわけでもなく、(シャーク)土屋と(クラッシャー)前泊の暴走からの流れで、私たちがFMW代表という流れになったんですよね。それにしても、すごい巡り合わせがあるものだなって」

写真:本人提供

これをきっかけに、JWPやLLPWも巻き込む本格的な団体対抗戦がスタート。工藤はFMWの看板を背負い、また、FMWの若手を牽引する立場となった。その中で、女子プロ界の大物たちと次々に対戦。同期でWWWA世界シングル王者に上り詰めていたアジャコングもそのひとりだ。

「私は早々と全女をやめてしまったので、私の中では宍戸江利花(アジャの本名)のままだったんです。活躍を人伝に聞いてはいたけど、アジャという存在を実際には見ていない。でも、リングで向き合ったとき自分が知ってる宍戸江利花とはまったくの別人だとわかりました。それでいて、どこか懐かしさを感じたのもまた事実でしたね」

個人としては、団体の看板を背負ってトップで闘うよりも、団体内の底上げを重視したかった。それでいて、外でも闘いたいという若手がいれば後押しを惜しまない。そして、団体対抗戦時代も終焉を迎える。この頃、工藤はデスマッチに足を踏み入れることとなる。最初は、有刺鉄線デスマッチだ。

「まさか自分がやるとは思わなかったし、やってはいけないものだと思っていました。有刺鉄線はFMWの象徴でもあり、有刺鉄線の試合でその日の大会が終わるのがFMWのスタイル。そこはまた男子の領域であり、女子が入り込むというのに私はすごく抵抗がありました。が、やると決まってからは、気持ちを切り替えましたね。そのときは大仁田さんが引退されて、新生FMWではそういった(大仁田の)色を消していこうとしていたんです。デスマッチ色を消して新生としてやっていこうというときに、どうして女子が戻そうとするんだという声もありました。でも、私には有刺鉄線マッチがFMWに入ろうとしたきっかけでもありますし、FMWだからこういったデスマッチができる。だから、みんなが消そうとするんだったら私はあえて女子がやってもいいんじゃないかなと思ったんですよね」

写真:本人提供

そして、95年9・5札幌で女子初の有刺鉄線マッチに臨んだ工藤。これが最初で最後のつもりだったのだが、結果的には周囲がこれを許さなかった。デスマッチを続けていくうちに、ひとは彼女を「邪道姫」と呼ぶようになっていく。

「私は一回限りのつもりでいました。というのも、デスマッチって最終決着戦でやるべきものだと思うんですよ。いろんな流れがあってデスマッチが終われば、その抗争に決着がつく。なので、その後にいろいろと形を変えてデスマッチをやっていくことになるとは思ってもいませんでしたね」

当然、デスマッチを重ねることによって身体に与えるダメージは大きい。痛みは想像以上で、未知の領域だからこそ男子の試合からは予想できなかった、髪が絡みついたりコスチュームが引っかかるなどのハプニングも多かった。そして、初の有刺鉄線デスマッチから約1年半後、工藤は土屋との「ノーロープ有刺鉄線電流爆破バリケードダブルヘルデスマッチ」で引退する。

「腰の状態が悪かったのもありますが、やり尽くした思いもありました。私が身を引いて、若い選手が新しいFMW女子を作る時期に差し掛かってきてるんじゃないかなって」

最後は横浜アリーナで、邪道姫らしく壮絶な闘いでキャリアを終えた工藤。最後の瞬間、脳裏に去来した思いとは?

「最後の最後で髪や肌に火を噴かれて火傷したり、そこでまた新しい体験もしました。そんな中で最後にスリーカウント入ったとき、寂しいと思ったんですよね。その瞬間はハッキリ覚えています。あ、寂しい、終わってしまったんだって…。立っているのがやっとのくらいのダメージだったんですけど、そういう終わり方ができてよかったなって思います」

リングを下りて以来、彼女には不思議なくらい復帰の噂がない。実際のところ、もう一度試合をしてみたいと思ったことはなかったのだろうか。

「よく言われましたよ(笑)。やめた方や復帰した方からも『またやりたくなるから』って。でも、本当に悔いなくやめられたので、(復帰しようと思ったことは)一度もないです(笑)」

➡次ページ(プロレスリングZERO1のGM就任・週刊プロレスの表紙)へ続く

©プロレスリングZERO1

©プロレスリングZERO1

そして現在、彼女はZERO1のGMとして奮闘中だ。

「GMって統括的なもので、なんでもやります。ZERO1って人が少ないので、それこそチケットも売るし、売店にも立ちます。あまりにも雑用に夢中になってて、タイトルマッチのベルトの返還でリングに上がるのを忘れることもあったり(笑)」

では、彼女は現在のプロレス界をどう見ているのだろうか?

「行動に移した者が夢とか目標をかなえられる環境が整っていると思いますね。なかなか難しいかもしれないけど、私からしたらうらやましい。たとえば、海外に行こうと思ったら海外への道も開けているし、デスマッチやりたいとなったらやれるし、挑戦できる環境が整っていると思います」

では最後に、彼女にとってプロレスとは?

「いま特にそう思うんですけども、私はプロレスに助けられてきたんです。現役時代だけじゃなく、いまも自分の人生を前に進めていくために助けられている。私はどんなに悲しいときでも会場に来てレスラーや仲間に会ったりすると、すごく元気になれるんですね。プロレスとは私にとっていつも支えになってくれるもの。それは楽しくもあり、苦しいもの痛いものでもある。そんな中でいまこうやって元気でいられるのも、プロレスのおかげだなって思っています」

写真:新井宏

現役時代、週刊プロレスの表紙になり大きな話題となった。女子レスラーのイメージに革命をもたらした写真が彼女の人気に一気に火を点けたわけだが、あれからかなりの時が経過したにもかかわらず、そのときのポーズを惜しげもなく再現してくれた。立場は変わっても、彼女は縁の下の力持ちとして、これからもプロレス界をKEEP ON RUNNING走り続ける。

インタビュアー:新井宏

▼WEEKEND女子プロレス(バックナンバー)

© 株式会社リアルクロス