【ジャイアント馬場】伝記絵本『うえをむいてあるこう』伊豆修善寺トークショーにスタン・ハンセンさんが初めて家族で登壇

ジャイアント馬場初の伝記絵本『うえをむいてあるこう〜ジャイアント馬場、世界をわかせた最初のショーヘイ』の刊行を記念し、同書に推薦文を寄せたスタン・ハンセンさん伊豆市民文化ホールでトークショーを行った。

第一部は、本書の企画をした株式会社H.J.T.Productionの緒方理咲子さん、文を執筆したくすのきしげのりさん、絵を描いた坂上暁仁さんが登壇し、ジャイアント馬場の生涯を描いた同書を紹介した。その後、担当編集の303BOOKS常松心平さんが、ジャイアント馬場さんとの思い出を中心に、ハンセンさんとともに、そのレスラー人生を振り返った。

①1975年の初来日とジャイアント馬場との出会い

常松:修善寺へようこそ! ハンセンさん、現役時代から静岡には何度も試合で来ていますね?

ハンセン:はっきり言ってどの外人選手と比較しても、私が一番来日しているはずです。静岡はもちろん、小さな街から大きな街まで、いろいろなところに行って、日本のいいところをたくさん見てきました。もう何回来たか覚えてないんですけどね(笑)

常松:初めて来日されたのは1975年、全日本プロレスですね?

ハンセン:初めて来日して、羽田空港について、そこから車で銀座方面まで向かったんですけど、周りを見回すと、子供の頃に映画で観た「ゴジラが暴れてた街だ」!ってね。

常松:ハンセンさんは、ゴジラと同じように客席で暴れていましたよ(笑)

ハンセン:もうひどい近眼で、眼鏡を外すとなにも見えないんです。ぼやけてる形を見たら、それを対戦相手だと思って突進していってたからだと思います(笑)私はリング外でも暴れるのが好きなファイトスタイルだったんです。だから対戦相手が一生懸命リング内でやろうとしてもそれを引きずり出して、戦っていました。

常松:初来日のときは馬場さんと話しましたか?

ハンセン:実はほとんど喋ってないんです。巡業が終わって、そこでギャラをいただくんですが、そこで初めて話しました。ババが感謝の気持ちを伝えてくれました。ただまさか、そこからこれだけ長く関係が続くとは思いませんでした。

常松:この絵本でも描かれていますが、馬場さんがおもにアメリカで活躍したのが1960年代の前半です。ハンセンさんは、その頃プロレスは観てましたか?

ハンセン:その頃は、小学生から中学生ぐらいだったのですが、当時、家にあったのは小さなブラウン管のモノクロテレビだったんです。とても見づらいんですよ。ただそのテレビで初めて観たのは「プロレス」だったんです。それはすごく印象に残ってます。ただ、プロレスに注目していたわけではないので、ババがアメリカで活躍していた姿は観てないんですよ。

②1981年衝撃の全日本プロレス移籍

常松:初来日した後は、新日本に移籍して、めちゃくちゃ活躍されて1981年に全日本に再び移籍されますよね。世界最強タッグリーグの最終戦で乱入して、テリー・ファンクをウエスタン・ラリアットでKOしてしまった伝説の試合です。

ハンセン:その頃の日本のプロレス界は非常に盛り上がっていて、両団体の選手の引き抜き合戦があって、ババが再び私に声をかけてくれて移籍することになったんですね。普通、選手と団体には契約書がありますよね。しかしババの場合は契約書がありませんでした。握手だけでした。それで約束をすべて最後まで守ってくれたんですね。本当に偉大な方です。

常松:それが今まで続く関係になるんですよね。

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** ※写真提供:株式会社H.J.T.Production

③プロモーター・ミスター馬場との関係

ハンセン:かつてのWWWF王者ブルーノ・サンマルチノを覚えていますか? 彼は、私が試合で大怪我をさせてしまったこともありますが、一度も私を批判したり、恨むことはありませんでした。私は彼をとても尊敬しています。本物のスーパースターです。彼が言った言葉があります。「プロレス界で、ババとハンドシェイクできたなら、もうそれで十分だ。何も心配することはない」と言ったのをよく覚えています。ババは、レスラーとしてもプロモーターとしても、あの偉大なサンマルチノにもそういわれる人なんだと思ったことをよく覚えています。

常松:ハンセンさんと馬場さんが試合以外のところでお話されることっていうのは、あったんですか?

ハンセン:ババとは全日本のリングがこれからどうあるべきかという話はしてました。ババは、いつも選手がどうすれば力を発揮できるか、全日本プロレスがどうすれば盛り上げられるかということを考えていましたね

④レスラー・ジャイアント馬場

常松:ハンセンさんは馬場さんと激闘を繰り広げられてますけど、どんな印象がありますか?

ハンセン:ババは決して筋骨隆々ではないし、パワーファイターではなかった。ただ異常なぐらい腱の力「ナチュラルパワー」を持っていました。だから水平チョップをくらったときは本当に効きましたね。そして、手がコンクリートのように硬かったんですよね、チョップは誰よりも一番痛かったんじゃないですか。

常松:1981年の伝説の乱入のときも、馬場さんのチョップで流血されてますよね?

ハンセン:私の記憶では逆だと思っています。私がババを流血させたのでは?(笑)自分が新日本から全日本に移籍したことについて、ババはとても喜んでいましたけど、リングの中ではお互い思いっきりやりあいましたね。

➡次ページ(全日本プロレスでの引退式・テリー・ファンクへの想い)へ続く

⑤全日本プロレスでの引退式

常松:それから長い月日が経ち、1999年に馬場さんは亡くなってしまいます。

ハンセン:私とババは「友達」という関係ではありませんが、お互い深くリスペクトしてて、信頼がありました。だからババが亡くなったときはショックでした。ジャンボ鶴田が後の社長になるべきだったんですが、結局彼もすぐに亡くなってしまい、全日本プロレスに大きな穴が開いてしまったように感じました。

常松:それでも全日本プロレスに上がり続けた。

ハンセン:だからこそ全日本プロレスを支えようと思いました。その後、私も選手としてのピークを越えて、だんだん体が効かなくなっていきます。怪我もあり、100%全力で試合することができなくなってきて引退を決めました。そうしたら、ミセス・モトコ(馬場元子)が東京ドームのババの三回忌の大会ですばらしい引退式をやってくれたんです。6万人の大観衆の前で、選手や関係者もたくさん駆けつけてくれました。家族も全員、来場しました。未だに忘れられない、一生の思い出です。

常松:ハンセンさんは、もちろんアメリカでもレジェンドなんですけども、キャリアの多くは日本での戦いでした。日本での戦いを選んだことは、ハンセンさんのプロレス人生にとって良かったことでしょうか?

ハンセン:まったく後悔はしてないし、今まで自分がした中で一番賢い選択です。私は日本に来て、日本という国、日本のリングに恋をした。そしてすばらしい対戦相手たちと巡り会えた。そして、日本人と恋に落ちて結婚した。だから決して間違いではなかったです。

⑥テリー・ファンクへの想い

常松:プロレス入りのきっかけとなったテリー・ファンクさんは昨年惜しくも亡くなってしまいました。テリーさんに対しての想いを聞かせてください。

ハンセン:NFLを辞めて、フットボール選手としてのキャリアを終えてから、中学校でフットボールのコーチをしながら小学生の体育の先生をしていたんですよ。その頃は月給が477ドルだったんです。でも、それだけで生活するのは難しくて。家賃も払えないし、車も買えない、家族を養えないんです。たまたまテリーと話していたら、プロレスやってみないか?って誘われたんです。「上手くいけば、稼げるかもしれないぞ」と言うんです。

常松:お金の問題があったんですね。

ハンセン:それで「いくらもらえるんだ?」って聞いたら、350ドルから400ドルぐらいだと。なんだそれじゃ教師より安いじゃないかとがっかりしてしまいました。そうしたらテリーが「それは月給じゃなくて週給だよ」って言うんです。私は、すぐに彼についていこうと決めました。テリーに「明日学校辞めて、プロレス入りする」って言ったら、「学校はきちんとした形で辞めてからにしろ」って言われたんです。そこから、すべてが始まりました。

常松:そうやってデビューされて、ずっと戦い続けてこられたんですね。

ハンセン:そのときテリーと、彼の父であるドリー・ファンク・シニアと話して、とりあえず3年間やってみてどこまでいけるかやってみようということになったんです。3年ぐらいでのし上がったらその先のキャリアを考えるし、それまでに出世できなければ、また教師に戻ろうと考えてたんですよ。

常松:結果27年のキャリアになりました。

ハンセン:若い頃、私はちょっとテリーに見た目が似てたんですよ(笑)昔デートで女の子と映画館に行ったんです。そうしたらテリー・ファンクと間違えられて、知らない人からサインくれって紙を出されて、しょうがないから「Terry Funk」ってサインしました(笑)。その後、テリーにはちゃんと白状しましたよ。テリーは私と同じ大学で、だいぶ先輩なんですけど、フットボールをやってました。テリーが私に注目してくれたきっかけも「お前に似たやつがいるらしいぞ」っていう噂が彼の耳に入ったんです。それで私のことを気にかけてくれるようになったんですよね。

常松:テリーさんのおかげでハンセンさんがレスラーの道を選んでくれて本当にありがたいです(笑)ここで、第一部を終わります。ありがとうございました!

➡次ページ(第二部:ユミ夫人、長男シェイバーさんも登場)へ続く

第二部は、ユミ夫人、長男シェイバーさんも登場。初めての家族で登壇となった。

ジャイアント馬場妻元子の姪である株式会社H.J.T.Productionの緒方理咲子さんが、ハンセンファミリーのワークライフバランス、子育て論について話をうかがった。

①ユミさんと結婚、そして新しい生活へ

緒方:まずは、おふたりの馴れ初めを聞かせてください。

ユミ:少し恥ずかしいですね(笑)。元々私の友達が主人のファンで、サインをもらいに行きたいって言われて、私は英語が少し喋れたので、じゃあ一緒に行ってあげようか?と試合を観にいったのがきっかけです。まだ私は予備校生で、18歳でした。出会ってみると、温かそうな人だなと思いました。分厚い眼鏡をかけて、服装もあまり気にしない。そんな素朴な人に見えました。今年の11月で結婚して39年です。

緒方:では、今度はハンセンさん、初めてユミさんをご覧になったとき、どんな印象でした?

ハンセン:世界一素敵な笑顔でしたね(笑)

緒方:ユミさん18歳でハンセンさんに出会われて、39年前のまだまだ保守的な日本で、ましてやプロレスのスーパースターであるスタン・ハンセンさんと結婚ということに、かなり決意が必要だったんじゃありませんか?

ユミ:主人がしつこく(笑)「結婚しよう」と言ってくれたんです。でも、私はひとりっ子で、父を早く亡くしていて、母をひとり置いて、アメリカに行くということについてはすごく悩みました。それでも最後には、私が幸せであることが母の幸せにもなるだろうと考え、主人についていきました。

緒方:ではハンセンさん、ユミさんが覚悟を決めて、ご自分のもとに来てくださったとき、ハンセンさんはどんな気持ちだったんですか?

ハンセン:とにかく一生面倒見る、それだけは保証する。だから新たな人生をスタートするためにアメリカに来てくれと言いました。それだけでなく一筆書きました(笑)

緒方:今は、離婚率も高くなってきていて、なかなか40年も一緒に人生をともに歩むことが難しくなってきています。その中で、国際結婚で、ハンセンさんは日本への遠征も多く、ユミさんは、アメリカで子育てをしながらずっとハンセンさんを待ち続けるのは並大抵な努力ではなかったと思います。

ユミ:人生は、常にバラ色とは限りませんからね。もちろん、主人とずっと一緒にいたいという思いはありました。主人は前妻との間にも子どもがふたりいて、主人の母も体調があまりよくなくて一緒に暮らしていました。だから結婚初日から大家族です。でも家族みんなが私をサポートしてくれたこともあり、大変でしたけど、がんばらなきゃ!と思っていました。

緒方:ユミさんのためにハンセンさんが決めていたことはありますか?

ハンセン:やっぱりお互いに対するリスペクトっていうのが非常に大事ですね。何かつらい時期があっても夫婦で乗り越えなきゃいけないわけですからね。だから世界一の夫になることを目指して一生懸命やっただけですよ(笑)。

②シェーバーさんから見た両親

緒方:すばらしい。シェーバーさんは、そんなご両親をどんなふうに思っていましたか?

シェーバー:今振り返ってもすばらしい両親だと思います。父はよく仕事で日本に行っていました。父は家に帰ったときはプロレスラーではなく、本当に父親だったんですよね。切り替えができてたんです。もう自分の父親がプロレスラーだということを忘れるぐらい。もちろん母親がきちんと家を守ってくれたことに感謝しています。

緒方:初めて自分の父親の仕事がプロレスラーだって知ったとき、どう思った?

シェーバー:物心がついたときから父はレスラーでした。アメリカでは意識することはなかったですね。その後、家族で日本に来て2年間暮らしますが、日本ではこんなに有名だったのか!とびっくりしました。家から一歩外に出ればスーパースターなんです。仕事がアイデンティティになっている人も多いですよね。家に帰ってもそれが抜けないわけです。でも父は、本当にきっちり切り替えて、家では父親に徹底していました。今自分は36歳で、4人の子どもがいますが、その父の姿がとても参考になっています。

緒方:シェーバーさんの言葉を聞いて、ハンセンさんはいかがですか?

ハンセン:誇らしい気持ちになります。ユミがまっすぐな人なので、シェーバーがまっすぐ育ったことがうれしいです。人生にはいろいろつらいことがあって、大変なこともあります。子供を育てるのは、非常に難しいし、大変なことなんですよ。家庭を維持するためには、仕事のことも考えなきゃいけないし、お金のやりくりもしなきゃいけない。ただ一番大事なのは子供たちを立派な人間に育てるってことだと思います。

緒方:ユミさんはいかがですか?

ユミ:シェーバーも今はお父さんですけども、私にとってはいつまでも息子です。いい青年に育ってくれたなということで本当に感激してます。それはただ私や主人だけの力ではなく、いろんな方のおかげです。私達がクリスチャンだったことも大きいです。シェーバーも子どもたちに愛を信じる力を伝えて欲しいなと思います。

緒方:シェーバさん、ハンセンさんからの言葉で印象に残っているものはありましたか?

シェーバー:私は以前野球選手でした。当然うまくいかないこともありますよね。当時はSNSもないし、モチベーションを高めてくれる映像もありません。そんなとき、父は私のモチベーションを高めるのがうまいんですよね。だから父から言葉をもらって、苦しいことを乗り越えてきました。「壁に当たっても、全力でぶつかって、ぶち破れ」ということはよく言われました。ただ1つ父の言葉で「カーブを投げられたら絶対にバットを振るな!」というのは納得できなくて、言うことを聞いていませんでした(笑)

緒方:シェーバーさん、ユミさんからの生き方で影響を受けた部分はありますか?

シェーバー:私も父親になって初めて気づいたんですが、父は長い間、日本で巡業に出ていますよね。そうすると母はひとりで子供たちの世話や家庭のことをしなきゃいけない。それはすごく大変ですよね。子供のときはそんな苦労に気がつかなかったですが、いざ自分が父親になって、初めてその苦労がわかりました。今、こうして私が日本に来ている間にも、妻が家庭を守り、子供たちの面倒見てるわけなんですよ。アメリカと日本の文化の違いもあるわけですから、母も大変だったと思います。今は本当に感謝の気持ちでいっぱいです。お母さん、ありがとう。

➡次ページ(子育てする上で大切にしているもの・日本のファンへ、そして馬場さんへ)へ続く

③子育てする上で大切にしているもの

緒方:おふたりは子育てにおいて大事にしているものはありますか?

ユミ:主人は、ふたりはチームだって言うんです。ふたりでふたつの道でなくて、常にチーム・ハンセンでふたりでひとつの方向へ進もうっていうことを話してくれます。

緒方:チーム・ハンセンのモットーはあるんですか?

ハンセン:聞く耳を持つことですよね。やっぱり意見が分かれることもあります。相手がどういう気持ちでどういうふうに考えるのか一生懸命理解しようとする。それが一番大事なんじゃないでしょうか。

緒方:シェーバー君はそういうご両親から育って、今、自分のファミリーで大事にしていることはありますか?

シェーバー:一番大事なことは、しっかりとモラルをもって生きることだと思っています。私の場合は神様を信じて、どんなときでも一生懸命やるということを意識してがんばっています。

緒方:2年間日本にお住まいになったときの思い出を聞かせてください。

ハンセン:ひとつよく思い出すのは、武道館で試合した後、私はタクシーで九段下の駅まで行くんです。そこで電車に乗って家があった神奈川県の大和市に電車で向かうのですが、車内には武道館で試合を観てくれたファンがたくさんいるんです。すぐに気づかれて「おい、ハンセンこんなところで何やってんだ!」ってよく言われました(笑)

緒方:シェーバーさんは日本での2年間のことを覚えていますか? 試合も観に行ったことはありますか?

シェーバー:はっきりとは覚えてないんですよね。かすかに会場で、父を探した記憶があります。ただ後で映像で試合を見るようになりました。だから何でもっと連れていってくれなかったの?って母にいいました。

緒方:ユミさんは、どうしてプロレス会場にそれほどシェーバーさんを連れて行かなかったのですか?

ユミ:まだ幼稚園とか小学校1年ぐらいの時だったんで、多分あまり父親の仕事はわからないだろうし、それでいいと思っていました。普通の仕事でも、仕事場に子どもは来ませんよね?
だからプロレス会場につれていかなくてもいいと思っていました。でも、馬場さんにも、元子さんにもご挨拶したかったので、二度ほどシェーバーを会場に連れていきました。

緒方:シェーバーさんは、ユミさんの気持ちを聞いて、どう思われました?

シェーバー:リアリティ番組で、レスラーとかボクサーが生活してるのを見ると、切り替えのできない人が多いんですよ。仕事なのかプライベートなのか境目がないんですよね。そのことで、いろいろなトラブルが起きてしまう。うちの場合はそういうのがなかったことを、すごく感謝してます。私も父親として、同じようにしようと思ってます。

④日本のファンへ、そして馬場さんへ

緒方:最後に集まってくださったお客様にメッセージをお願いします。

ユミ:私は普段人前でしゃべることはないのですが、今回は馬場さんの絵本の刊行記念で、その人柄をお話するということで、家族で来ました。主人は引退して今年で23年になるんですけれども、本当に今でもたくさんの方が応援してくださっています。いろいろなところから来てくださっていて、お顔を拝見すれば、主人もわかっていると思います。本当に心から感謝しています。ありがとうございました。

ハンセン:先ほど言ったように、私は仕事とプライベートをできるだけ分けるようにしていました。だからこういう形で家族全員でステージに立つというのはものすごく不思議な感覚です。ただ、70歳を過ぎた私のために、長年ついてきてくれたファンがまたこうやって集まって応援してくれるのは本当にありがたいことです。そしてジャイアントババがいたからこそ、自分はこういうチャンスに巡り合うことができて、彼がいなければここまでにはならなかったんです。だからファンとババに感謝の気持ちをもって、家族といっしょにここにいます。本当にありがとうございました。

写真:鴻野節夫(鴻野写真館)、遠藤覚(静岡県立下田高等学校 写真部顧問)

『うえをむいてあるこう〜ジャイアント馬場、世界をわかせた最初のショーヘイ』出版記念スタン・ハンセントークイベント@伊豆修善寺
主催:伊豆半島でレジェンドに学ぶ会 公演:伊豆市、伊豆教育委員会、静岡新聞社、静岡放送

『うえをむいてあるこう〜ジャイアント馬場、世界をわかせた最初のショーヘイ』
作=くすのきしげのり / 絵=坂上暁仁 発行=303BOOKS 定価:1980円(税込)

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