小説=流氓=薄倖移民の痛恨歌=矢嶋健介 著=112

 彼女はわが子を手放す気持ちには全くなれず、娘を連れて家出を試みた。それが失敗に終わると、今度は子供を奪われ、家を追われてしまった。 

 茶を飲みながら、千江子は淡々と以上のような話をした。矢野は、彼女の半生の輪郭があらかじめつかめた。何十年の時間の隔たりが一挙に縮まって、親近感が深まった。と同時に、人並み以上の美貌をもった女が、独りで居ることに関して、田島との間を詮索し、二人の関係をより詳しく知りたい気もしたが、やはり、このまま別れるのが友情ではないかとも思えた。

 矢野は別れの挨拶をするために座を立った。千江子が門口まで送ってきた。矢野は千江子の掌を握った。それは思いのほか温かかった。彼女はためらわず矢野の掌を強く握りかえし、さらに矢野の方へ身を寄せてきた。矢野は相手の両肩を強く抱いた。咄嗟の思いで唇を近づけると、

「いや……」

 千江子は、低く言った。矢野は、千江子と対面したときからの衝動を抑えきれず、さらに彼女を引き寄せ、その首筋に接吻した。ほのかな香水が薫った。

「ごめんなさい。気持ちの準備ができていないの……」

 千江子は、強いて矢野から逃れようともせず、相手の胸に顔を埋めたまま言った。

「この次、いつ逢えるものか解らない。だから、今……」

 矢野は、強引に千江子の顔を両掌で押さえて、半開きの形のいい唇を自分のそれで覆った。わずかに抵抗しながらも、それは拒否する動作ではなかった。

 

(四)

 

 あれから何年になるだろう。矢野は今、広島への新幹線の中にいて、過ぎ去ったあの日のことを回顧していた。妻に死なれた翌年だった。もう二〇年は過ぎている。あの時、千江子に激しく惹かれたので、自分はやもめだ。いつでも結婚の準備ができている。娘が一人いるが大学卒業後には、結婚相手が決まっている。千江子さんに心配をかけるようなことはない。返事次第ではいつでも日本へ迎えに行く、と申し出た。先方からは、娘をおいて、海外に出る勇気はない。将来は娘のところへ帰りたいと思っている。決心がつけばまたお便りします。という返事とともに、八重子という娘のアドレスと電話番号を記してきた。二度、三度、便りを出したが、同じような返事だった。矢野は一方的に恋していた自分を知った。虚しかった。いつしか、便りも途絶えてた。

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