板尾創路が語る「自分たちの世代の舞台」ほんこん、今田耕司、木村祐一、東野幸治……「花月」か「2丁目劇場」かという選択はなかった

板尾創路 撮影/川しまゆうこ

気がつけばいつの間にか訪れていた人生の分岐点。「あのときああしておけば」「もしも過去に戻れたら」――? かつての分かれ道を振り返り、板尾創路がいま思うこと。(第5回)

僕とほんこんさんで結成した130Rで「心斎橋筋2丁目劇場」の舞台に立つことは楽しかったですね。同じ歳で気の合う相方と一緒にネタを考えて舞台でコントをやって、まぁ、そこそこウケていたので、「このまま芸人を続けることができるんじゃないか」という感覚になりました。

ダウンタウンさんとは、2丁目劇場で上演された『心斎橋筋2丁目物語』で共演させていただいたことで距離が縮まりました。すでにテレビやラジオに出ている人気者でしたが、やっぱりネタが面白かった。当時、ダウンタウンさんの漫才は「若者の立ち話のようだ」と言われていました。ただ、「若者の立ち話」のように見せながら、どうすれば伝わるか、どうすればウケるか、基本をしっかり押さえている。その本質は王道の漫才だったんです。2丁目劇場に出ている頃のダウンタウンさんが「全国区のタレントとして売れる」ことは予想できませんでしたが、漫才師として大阪で名前を残すコンビになると、僕は確信していました。

当時は、ダウンタウンさんと同じNSC(吉本総合芸能学院)1期生のハイヒールさんやトミーズさんのほうがテレビに出ていたんです。この2組は老若男女にわかるキャラクターとネタだったので、制作側が使いやすかったのでしょう。

吉本側もダウンタウンさんを認めていたけど、ハイヒールさんやトミーズさんに期待をしているように感じていました。ダウンタウンさんが司会する帯番組『4時ですよ〜だ』が始まると、その状況も変わっていきます。

ほんこんさん、今田耕司くんに加えて、花月の進行を担当していた木村祐一くん、オーディションで入ってきた東野幸治くんも2丁目劇場に合流すると、そのメンバーでよく話すようになりました。ボケを試すこともあれば、それぞれのネタを分析したり、アドバイスを送り合ったり、映画や漫画の情報交換をしたり、すべては「もっとウケるため」の会話でした。無意識のうちにお笑いのことを24時間、考えていたんです。

「アンチ吉本」「アンチ花月」を掲げた2丁目劇場への誇り

なんばグランド花月やうめだ花月には憧れもありましたが、プロデューサーの大﨑洋さんが「アンチ吉本」「アンチ花月」を掲げて2丁目劇場を立ち上げたので、僕らは「自分たちの世代の舞台」という誇りを持っていました。師匠がいない芸人たちの集まりでしたから、「自分たちで作らなきゃいけない」という意識は強かったと思います。だから、「花月」か「2丁目劇場」かという選択はありませんでした。

僕は花月に出ている師匠方と軋轢はありませんでしたが、NSCの1期生は師匠方に「礼儀を知らん」と小言を言われることもあったそうです。1期生の先輩方が苦労して開拓してくれたおかげで、僕らは過ごしやすい環境でいられたのかなと思います。

2丁目劇場に出ている芸人が花月の舞台に立つこともありましたが、僕はコンビ結成が遅かったのもあって声がかからなかったんです。数年後、吉本新喜劇に出ることになって花月の舞台に立ったときは「歴史」を感じました。「芸人の世界に来たんやな」と、改めて感慨に浸ったことを覚えてます。

ランキング制が導入されるなど、現在の劇場は熾烈な競争が行なわれているイメージがあります。僕らの頃は「他の芸人よりウケたい」という気持ちはあっても、そこまで生存競争は激しくなくて。そもそも劇場に秩序がなかったというか、若手中心の劇場が作られたばかりなので、「道筋」がハッキリしていなかったんです。

当時は、東京進出なんて想像もできなくて、頭の中にあるのは「大阪で売れること」でした。松竹芸能さんをはじめとした他事務所を意識することもなく、どうやって吉本の中で売れるか。僕は劇場も好きだけど、テレビに出たい気持ちが強かったので、当時は大阪の番組で活躍することを見据えていました。

2丁目劇場は4年くらいで卒業しましたが、劇場は芸人にとって足腰を鍛えることができる大切な場所だと思ってます。全国各地どこに行っても板の上に立てばお客さんを笑わせることができるようになるには、10年、20年と長い時間が必要で、テレビにばかり出ているとそうはいきません。地方営業に行くと、劇場に立ち続けている芸人の強さを感じます。その場にいるお客さんの心を掴むテクニックに長けているんです。

コロナ禍以降は配信が一般的になって劇場のギャラだけで食うことができる若手が増えたと聞いています。時代が違いすぎて想像することは難しいけど、いまのようにさまざまな環境が整っていたら、僕も逆に舞台に力を入れていたかもしれません。

取材・文/大貫真之介 撮影/川しまゆうこ

板尾創路(いたお いつじ)。1963年7月18日生まれ、大阪府出身。NSC大阪校4期生。1986年にほんこんと蔵野・板尾(現130R)結成。芸人としてはもちろん、俳優・映画監督としても幅広く活躍している。

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