祝設立40周年:DEF JAM/デフ・ジャムを仕切った5人の男たち

ヒップホップやR&Bなどを専門に扱う雑誌『ブラック・ミュージック・リヴュー』改めウェブサイト『bmr』を経て、現在は音楽・映画・ドラマ評論/編集/トークイベントなど幅広く活躍されている丸屋九兵衛さんの連載コラム「丸屋九兵衛は常に借りを返す」の第48回。

今回は、今年設立40周年を迎えるヒップホップレーベル、デフ・ジャムについて。

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昭和から平成にかけての日本では「24時間働けますか」と過労を礼賛する一方で、「個人はしょせん組織の歯車に過ぎない」という諦観もあった気がする。

が、そんなわけがないのだ。同じ会社でも要所要所の人事交代によって組織は大きく変化するもの。特に音楽の世界では。

この2024年でオフィシャル起業から40年を迎えるデフ・ジャムはその好例と言える。そこで本稿では、デフ・ジャムを率いてきた代表・CEO・社長たちを紹介したい。

 

1. リック・ルービン / Rick Rubin

全てはこの男から始まったのだ。

1963年、ニューヨーク州ロングビーチ市(ナッソー郡なのでニューヨーク市至近)に生まれた彼は、ニューヨーク大学の学生だった1982年に、自分が所属するパンク・バンド「Hose」のシングルを出す。それが学生寮を根城にしたアマチュア・レーベルたるデフ・ジャムの第1弾リリースだった。

ルービンの関心がヒップホップに移っていったため同バンドは解散に至るが、同時期にズールー・ネイションのDJ・ジャジー・ジェイと知り合ってヒップホップの音作りを学び始めたルービンは、そのジャジー・ジェイから紹介された(でも一説によればヴィンセント・ギャロの紹介で知り合った)ラッセル・シモンズと意気投合。ジャジー・ジェイ抜きで盛り上がったルービンとシモンズは、84年にデフ・ジャムを正式起業した。経営に専念したシモンズと違い、ルービンはプロデューサーとしての功績も大。LL・クール・Jやビースティー・ボーイズ、(デフ・ジャム所属ではないが)ラン・DMCのサウンドを手掛けてきた。

1988年、社長職に就いたリオー・コーエンとソリが合わずデフ・ジャムを離れたルービンは、ロサンゼルスに移ってデフ・アメリカン・レコーディングスを設立する。ただし、Defという言葉そのものが一般化して辞書に載るまでになり、ヒップホップらしいエッジを喪失したと感じたルービンは93年に「デフの葬式」を敢行! アル・シャープトン牧師によるスピーチまで入る本格的な儀式だった。

こうして単に「アメリカン・レコーディングス」となった自己レーベルを拠点に、ヒップホップからヘヴィメタル、アデルからエド・シーランまでを手掛けるプロデューサーとして現在も活躍中。

私生活では、ヴィーガンとして長年を過ごすうち不健康に太り、栄養士の助言で肉食を再開して痩せたという珍しい人物でもある。

 

2. ラッセル・シモンズ / Russell Simmons

1957年、ニューヨーク市クイーンズ区生まれ。父親は学校の校長、母親は市役所の管理職で、彼の地に住むミドルクラス層の存在を我々に知らしめてくれる。兄は画家で詩人のダニー・シモンズ、弟はラン・DMCのラン。

ラッセルは高校卒業後、ニューヨーク市立大学に進むが、そこで出会ったDJ兼ブレイクダンサーの影響でヒップホップに目覚め、学業からフェイドアウト。やがてコンサート・プロモーター/アーティスト・マネージャーとして活動していたところ、リック・ルービンと知り合ってデフ・ジャムの創立に至る。

本業であるレーベルとマネージメント会社(Rush Artist Management)の運営以外に、多数の映像事業にも関与。黒人コメディアンを多数輩出したTV番組『Def Comedy Jam』やモス・デフが司会するスポークンワード番組『Def Poetry Jam』、さらに映画『Def Jam’s How to Be a Player』などDef Jamという名称へのこだわりは人一倍強い。同時に、彼が立ち上げたヒップホップ・ファッションのブランド「Phat Farm」と「Baby Phat」からわかるとおりPhatにも愛着があるようだ。

リック・ルービンと違い、30年以上もデフ・ジャムに関わり続けていたシモンズだが、2017年に多数の女性から訴えられて以来、多くのメディア事業でのエグゼクティヴな立場から退いている。

 

3. リオー・コーエン / Lyor Cohen (1988–1998)

1959年生まれ、ということはリック・ルービンより歳上だ。イスラエルから移民してきた両親のもと、ニューヨークに生まれロサンゼルスに育ったリオー・コーエンは、大学でビジネスを学んだのちイスラエルの銀行のビヴァリーヒルズ支部に務めるが、すぐに音楽業界入り。

1984年にラン・DMCやフーディーニが出演するコンサートに関わったことが縁でラッセル・シモンズのRush Artist Management入りすることとなった彼は、ラン・DMCのツアー・マネージャーに就任する。同グループのジャム・マスター・ジェイから音楽ビジネスの基礎を教わったコーエンは、ヒップホップ・マネージメント界の大物となり、やがてマネージメントからレーベル側に転身。1994年にデフ・ジャムがソニー系からポリグラム系に移る交渉もコーエン主導で行われたものだ。

デフ・ジャムといえば「ヒップホップ黎明期の重要レーベル」の印象が強いが、実はコーエンが関与してからの90年代における拡張と盛り上がりが凄い。特にジェイ・Zの『In My Lifetime, Vol. 1』をリリースした1997年からの快進撃が。

1998年、ポリグラムがユニバーサルに吸収される際にデフ・ジャムは他レーベルと統合され、Island Def Jam Music Groupに再編成。ここに至ってコーエンはデフ・ジャムではなく、Island Def Jam Music Group全体の代表に。隠してコーエンは「メジャーレーベルの代表に就任した初めてのヒップホップ・レーベル社長」となった。

なお、その時にコーエンの後を継いでデフ・ジャム代表となったのは、部下だったケヴィン・ライルズ(1998–2004)。彼はもともとメリーランド州ボルティモアを拠点とするNumarxというグループの一員だった。このグループの持ち歌の一つが「Girl You Know It’s True」。そう、のちにミリ・ヴァニリが歌うアレであり、ライルズの名前はしっかりとクレジットされている(スペルミスされている例あり)。

 

4. ジェイ・Z / Jay-Z (2004–2007)

リオー・コーエンがワーナー系に移り、アントニオ”LA”リードが新たなIsland Def Jam Music Group代表に就任。デフ・ジャムを取り巻く環境が変わるのが2004年だ。

ほぼ同時期、ジェイ・Zの契約を巡る争奪戦が勃発。グループ代表たるLA・リードは「デフ・ジャムの社長職」という条件も加えて提示し、ジェイ・Zを引き留めることに成功する。もちろん古参のLL・クール・Jや稼ぎ頭のDMXなど、この人事に意を唱えるアーティストもままいた。

しかし、「俺はマーシー・プロジェクトでMBAを取得した(=ゲットー・ライフのおかげでビジネスのセンスが培われた)」と言い切るジェイ・Zが就任した後のデフ・ジャムも好調で、Young Jeezyの『Let’s Get It: Thug Motivation 101』、マライア・キャリーの『The Emancipation of Mimi』、リック・ロス『Port of Miami』といったプラチナ作品を生み出すことになる。

そして、Ne-Yoとリアーナという2大新人のキャリアが開花したのもこの時期だ。もっともリアーナに関してはオーディションの時に前のめり気味だったのは上司であるLA・リードの方で、「契約が成立するまで彼女をビルから出すな」とジェイ・Zに指示したという。

5. LA・リード / L.A. Reid (2008–2011)

『American Gangster』リリース後の2007年末、ジェイ・ZはRoc Nation設立のため、デフ・ジャムとの契約を更新しないことを選択。その後は、次なる社長を新たに雇うのではなく、Island Def Jam Music Group代表のアントニオ”LA”リードが自らデフ・ジャムを担当することとなった。

ここで改めてLA・リードの紹介を。80年代半ばまではザ・ディール(The Deele)というバンドのドラマーとして活動、その後はバンドメイトのケネス”ベイビーフェイス”エドモンズと組んでプロデューサー・チーム「LA&ベイビーフェイス」として超絶活躍を見せた人物である。

リード社長時代のデフ・ジャム作品としては、引き続き好調のマライアによる『E=MC²』、波紋を呼んだナズの『Untitled』、ロナルド・アイズレーの『Mr. I』、ジェイ・Zとカニエ・ウェストの『Watch the Throne』等が印象深い。

だが2011年にLA・リードはデフ・ジャムを去り、やがてエピック・レコーズのCEOに就任。その後、デフ・ジャム代表の座はエミネムのマネージャーだったポール・ローゼンバーグらを経て、現在のTunji Balogunに至るのだ……。

Written By 丸屋九兵衛

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