幻の敷物「藤緞通」復活 明治に生産も現存せず…兵庫の作家が京丹後で技術学び、糸作りから作り挑戦

日本三大緞通[だんつう]として知られる手織り敷物「赤穂緞通」の作家見並なおこさん(48)=兵庫県上郡町=が、明治期に藤の糸で織られたとされる「藤[とう]緞通」を復元した。京都府宮津市上世屋地区に伝わる「藤織り」の技術を継承する「丹後藤織り保存会」と会長の坂根博子さん(66)との出会いをきっかけに、自ら作った糸で織り上げた。先人の紡いだ糸で結ばれた縁が、幻の緞通を現代によみがえらせた。

藤緞通とは、敷物の表面を形成する「挟[は]せ糸」に藤糸を使って仕上げたもの。靴文化の西欧向けに輸出するため、強くてしなやかな藤糸が使われたとされるが、現存はしていない。

明治期に織られ幻の緞通といわれた「藤緞通」の復元作品(兵庫県赤穂市・市立歴史博物館)

見並さんが藤緞通を知ったのは20年前。兵庫県の赤穂市立歴史博物館が編集した冊子に文字のみで紹介されていた。絵も写真もなく「そもそも、植物からどうやって糸ができるの」と、疑問は興味に変わった。

2023年春、子育てが一段落して時間のゆとりができた見並さんは藤緞通の復元を決めた。インターネットで藤織り作家を探し、糸を購入できないかとメールや電話をかけ、時には現地に赴いた。

だが、藤織り作家は指で数えるほどしかいない上に、藤糸作りは大変な手間がかかるため「とても貴重なので」と断られ続けた。

そんな中、京丹後市の織物作家から保存会主催の講習会を勧められた。藤糸作りを一から学べると知り、参加を決めた。新型コロナウイルス禍を経て3年ぶりに再開するタイミングだった。

5月に講習が始まる前、見並さんは宮津市溝尻にある坂根さんの工房「凪[なぎ]」へあいさつに行こうとしていた。一方、工房には数年前から見学希望者が増えており、坂根さんは受け入れを控えていた時期だった。自分の創作活動に集中したいとの思いもあったが、知人の緞通作家と訪れた見並さんの「藤緞通を復元したい」の一言に胸を打たれた。坂根さん自身、かつては全国各地で織られていた藤布を伝え、残したいとの思いで活動している。伝統技術を継ぐ者同士、後押ししたいとの気持ちが芽生えた。

さらに、初回の講習の前日、見並さんは「自宅の山で取ってきたのですが、フジでしょうか」と数本のツルを坂根さんに見せた。坂根さんは「習う前に自らフジを持ってきたのは2人目」と、行動力に圧倒された。

後に保存会のメンバーが知ることになるのだが、見並さんが緞通作家になったのは弱冠15歳。当時、1人だけになった作家の後継者を募集する新聞広告を見つけてこの道に飛び込んだ。30年以上の歩みの中でひし形やハート形の緞通を織るなど革新的な作品にも挑戦してきた。

ただ、藤織りと緞通では勝手が違うようで、見並さんは「私だけフジの繊維をうまくより合わせられず、よくちぎれてしまいました」と苦笑する。それでも、講習の時間以外でも自宅で藤糸づくりに励んだ。

坂根さんは、ひたむきな見並さんに短くて糸を紡げないフジの繊維「オクソ」を贈った。藤織りに欠かせない素材を「生き物」と呼ぶ坂根さんにとって、大切なものだった。

藤布を織る見並さん(右)を見守る坂根さん=宮津市上世屋・藤織り伝承交流館

見並さんはもらったオクソを挟せ糸にして試作を重ねた。ふわふわに仕上げたり、表面の糸を切りそろえたりと3点を手がけた。博物館学芸員にも監修してもらった後、自作の藤糸での緞通作りに挑戦した。

フジを採取して糸になるまで4カ月。山に入ってツルを刈り、剥いだ皮をアクで炊いて柔らかくし、川の水にさらして乾燥させる。ようやく手にした約20メートル(160グラム)分に「糸の貴重さや技術を教えてもらえたありがたみが身にしみた」と振り返る。

また、柔らかい手触りに仕上げるため、よりをかけず繊維状のまま経[たて]糸に結んだ。わずかな糸も無駄にしないように慎重に織った。

2カ月かけて織り上げた一辺31センチの緞通は「光凪[みなぎ]」と名付けた。坂根さんの工房近くから見える天橋立の松並木と上世屋の山々をイメージした。オクソを使い紺色のひし形の文様も入った「縁[えにし]」(同13・5センチ)も完成させ、2点が博物館で展示される運びとなった。

赤穂緞通に詳しい木曽こころ館長代理(50)は「当時のものに近い緞通が復活し、画期的。技術を残した保存会の尽力のたまものでもある」と評する。

昨年の11月下旬、藤織り保存会のメンバーは見並さんの藤緞通を見学しに博物館を訪れた。坂根さんは「光凪」を見て、10年以上前にくも膜下出血で亡くなった夫の光明さんを思い出した。「光」という共通点に、工房の前の天橋立を望みながら「仕事が落ち着いたらここで喫茶店でも開きたい」とつぶやく姿が脳裏に浮かんだ。目頭が熱くなった。「夫がこの縁を結んでくれたのかも」。

藤織り保存会は現在、担い手不足や会員の高齢化により継承への苦労が増している。糸作りから機織りまで全ての工程をこなせる人は5、6人といい、坂根さんは「糸作りまででも知ってもらえたら」と望んでいた。

保存会会員になった見並さんは、次回の講習会への参加を決め、藤織りにも取り組み、兵庫からこの技術を発信することを誓う。

一方、坂根さんは見並さんに触発され、独自の緞通作りに挑戦した。赤穂緞通は基調となる経糸と緯糸[よこいと]が木綿なのに対し、坂根さんは全てを藤糸で作る「凪緞通」を編み出した。2人が出会わなければ生まれなかった世界初の作品だ。見並さんを「ライバル」と呼び、藤織りに緞通に、切磋琢磨[せっさたくま]しようと意欲をみせる。

見並さんは「長年の夢だった藤緞通の復元は、保存会の皆さんが貴重な技術を教えてくれたおかげ」と感謝し、藤糸を「歴史や人をつないでくれる不思議な糸」と称する。先人が紡いできた技術に導かれた人たちにより、新たな技術が次代へと継がれていく。

(まいどなニュース/京都新聞)

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