修行はムダではなく「実は役に立つ」、能楽師・辰巳満次郎が8年の内弟子生活で得た「洞察力」

辰巳満次郎 撮影/渡邉肇

古典の継承や普及活動に尽力する一方、海外公演や新作能の演出、他ジャンルとの融合など、さまざまな表現にも挑む能楽師・辰巳満次郎。そんな彼の今日に至るまでの「THE CHANGE」とはーー。【第1回/全2回】

たまに、「同じ伝統芸能でも、歌舞伎役者さんや落語家さんと違って、能楽師さんは毎日は舞台に出てませんね。ふだんは何をしているんですか」と聞かれることがありますが、実はけっこう忙しいんですよ(笑)。

たしかに、基本的に公演は一日限りです。他の芸能のようにロングラン興行はなく、一期一会。

とはいえ、能の曲目は全部で200曲ほどあり、能楽師はそのすべてを習得し、いつでも舞台にかけられるようにしておかなければなりません。もっとも、一生涯に全曲を舞台で演じた人というのは、これまでいないのですが、たとえ自分が生きている間に舞台で演じることはなくても、次の代に伝承していくために修める必要があるんです。

公演予定に合わせて稽古をするのではなく、日々稽古して、いつどの曲の舞台にも出られるように備える――。そういう意味では、能楽師の稽古は自衛隊の訓練と似ているかもしれませんね(笑)。もっとも、我々の修行は出番の可能性がありますが、自衛隊の出番は戦闘という意味では無いことを祈りますが、それぞれ目的のためにモチベーションを保つのは容易ではないと思います。

さらに、自分の稽古だけじゃなく、弟子に稽古をつける時間も必要です。だから、決して暇じゃないんですよ(笑)。

私も、生まれたのが宝生流の能楽師の家なので、自我が芽生える前に、この世界に放り込まれて、ずっと稽古をしてきました。

初舞台は4歳のとき。以来、この道60年です。遊び盛りの子どもにとって、能の稽古は我慢を強いられることばかり。さらに私の父は、とかく厳しいことで有名でした。しかも実家が能楽堂でしたので、いつでも稽古ができる環境が整っていて、子どもの私はいつも「どこかへ逃げたい」と思っていました。

代々伝わってきた「能面」を手に取ったのが転機

そんな私が能楽師の道に進もうと自ら決意したのは、高校生のとき。この時期の男子は声も体も不安定な状態で、本当に稽古がつらく、ここで辞めてしまう人も少なくありません。

そんな中、実家に代々伝わってきた能面を手に取ることがあったんですが、それが人生の最初の転機となりました。

人間の一生よりもずっと長い時間を過ごしてきた能面を前に、文化の伝承について考えたんです。今日まで、多くの人の手を経て何百年と伝えられてきたこれらを、自分も伝えていかなければならない、と。

それで、高校を卒業して、大阪の実家を出て東京芸術大学の邦楽科に入学するために上京しました。それと同時に、先々代の家元の内弟子になったんです。

内弟子というのは、住み込みで修行しながら、師匠の身の回りのこともやるんです。タコ部屋みたいなところで兄弟子たちと寝起きして、炊事洗濯、電話番に運転手。最初はもちろん使いっ走りです。毎日のように家元に怒鳴られていました。そんな生活がだいたい7〜8年。

伝統芸能の内弟子というと、最近ではあまりはやらないようですね。芸事と関係ない雑用に取られる時間が長いので、「こんなことして、ムダなのでは」って思うのも無理はありません。

でも、実は役に立つんです。内弟子をやっていると、いろいろなピンチに見舞われることがありますが、そのときに機転を利かせて、どうやって解決するか。いざ舞台に立って、さまざまなトラブルが発生したとき、そのときの経験が後に生きました。

ぼんやりと修行していても、それは身につきませんが、私の場合、だからこそ時間をいかに有効に使うかを意識しました。たとえ教わらずとも、家元や先輩たちを日々よく観察して「おい、お前やってみろ」と言われたときに、ソツなくこなせば周りからも一目置かれます。

要は、いかに気が利くかということなんです。内弟子生活で培われた洞察力や判断力、瞬発力といったものは、後々、能楽師として大いに役立ちました。まさに「人間力」を磨く時間だったわけですよね(笑)。

辰巳満次郎(たつみ・まんじろう)
1959年兵庫県生まれ。父・辰巳孝、宝生流18世宗家・宝生英雄に師事し、1986年独立。古典の継承・普及活動に尽力する一方、他ジャンルとの融合を通じてさまざまな表現にも挑んでいる。重要無形文化財保持者。文化庁文化交流使。日本芸術文化戦略機構(JACSO)名誉理事長。共著に『能の本』(西日本出版社)などがある。

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