日本政府は約1,200兆円もの莫大な借金を抱えています。なぜ昔の人が作った借金を、いまを生きる私たちが背負わなければならないのでしょうか。本記事では、お金の向こう研究所の代表を務める田内学氏の著書『きみのお金は誰のため:ボスが教えてくれた「お金の謎」と「社会のしくみ」』(東洋経済新報社)から一部抜粋します。国と個人の「借金」の違いについて考えてみましょう。
あらすじ
キレイごとが嫌いな中学2年生の佐久間優斗は「年収の高い仕事」に就きたいと考えていた。しかし、下校中に偶然出会った銀行員の久能七海とともに「錬金術師」が住むと噂の大きな屋敷に入ると、そこで不思議な老人「ボス」と対面する。
ボスは大富豪だが、「お金自体には価値がない」「お金で解決できる問題はない」「みんなでお金を貯めても意味がない」と語り、彼の話を聞いて「お金の正体」を理解できた人には、屋敷そのものを譲渡するという。図らずも優斗と七海はその候補者となり、ボスが語る「お金の話」を聞くことに……。
登場人物
優斗……中学2年生の男子。トンカツ店の次男。キレイごとを言う大人が嫌い。働くのは結局のところ「お金のため」だと思っている。ボスの「お金の話」を聞くために、七海とともに屋敷へと通う。
七海……アメリカの投資銀行の東京支店で働く優秀な女性。当初の目的は投資で儲ける方法をボスから学ぶことだったが、現在はボスの「お金の話」を聞くために屋敷へと通う。
ボス……「錬金術師が住んでいる」と噂の大きな屋敷に住む初老の男性。関西弁で話す。1億円分の札束を「しょせんは10キロの紙切れ」と言い放つなど、お金に対する独自の理論を持つ大富豪。
奨学金という名の「借金」
「急だけど、今週末の日曜日になったから、予定空けておいてね」
久しぶりに七海からメッセージが届いたとき、3月も中旬になっていた。中2最後の学年末テストが終わり、春休みを待つだけの暖かい日の夜のことだった。
メッセージには、2つのことも書き添えられていた。1つは、ボスの講義が、彼の研究所ではなく、週末に入院する病院で行われること。もう1つは、入院といっても検査入院なので心配いらないということ。
「了解です!」と優斗は返信した。
スマホから顔をあげると、部屋の隅に積み上げられた段ボールがまた1つ増えていた。
第一志望の大学に無事合格した兄は、さっきから引っ越しの準備をしている。来週から東京で新生活を始める予定だ。
その様子を見つめる優斗の心には、いろんな感情が湧き上がってきた。1人で部屋を使えるのはうれしい反面、いっしょに暮らす時間もあとわずかだと思うとさびしい気もする。
「ねえ。1人暮らしを始めるって、どんな感じ?」
「そりゃ、楽しみだけどさ。すぐにバイト探さねえとな」
「いいじゃん。バイトだって、楽しそうじゃん」
うらやましがる優斗に、兄は荷造りの手を止めて、あきれた顔を向ける。
「お前さあ、そんな気楽じゃねえよ。大学卒業したら奨学金も返さなきゃいけないし」
「奨学金って借金なの?」
「そうだよ。俺がもらうのは、将来、返さなきゃいけないやつだからな」
「それって、いくらなの?」
「300万円」
「マジかあ……」
その金額に驚いて、優斗は天井を見上げた。
「お前も中途半端な気持ちで大学行くなよ。親にも負担かけるし。お前と俺、4つしか離れてないから、結構、気を遣っているんだぜ」
いつもの意味のない冗談だと思って、優斗はつっこみを入れる。
「歳の差なんて関係ないじゃん」
「全然わかってねーな」
兄は笑いながら、首を振った。
「俺が一度でも、浪人でも留年でもしてみろよ。お前が大学に入ったとき、俺もまだ大学生だろ。同時に2人の大学生を抱えるなんて大変だぜ。まあ、お前が大学に行けば、っていう話だけどな」
そう言うと、兄はふたたび荷造りに取りかかった。
優斗は、自分の選択に責任が伴うことが痛いほどわかった。そして、さびしいとか、うらやましいとか、子どもじみた感情しか抱かなかったことを恥ずかしく思ったのだった。
1人1,000万円の借金
日曜日の午後、優斗は駅前で七海と待ち合わせてから、バスで病院を訪れた。市内でいちばん大きいその総合病院には、何度かお世話になったことがある。
正面玄関を通り抜けて、「病棟はこっちですよ」と優斗が案内したとき、七海が急に立ち止まった。
「どうしたんですか」
優斗があわてて声をかける。
七海は下を向いたまま深呼吸をして、すぐに顔をあげた。
「ちょっと立ちくらみしただけ。もう大丈夫」
心配になって、さらに声をかけようとしたが、彼女がふたたび歩き出したので、優斗は黙って後ろをついていくことにした。
5階に上がって面会の受付をすませると、研修中のバッヂをつけた看護師が、ボスの病室の前まで案内してくれた。そのドアは、他の部屋よりも明らかに大きかった。
コン、コン、コンと七海がノックをする。
部屋の中から「どうぞ」という声が聞こえ、彼女はゆっくりとドアをスライドさせた。
広い室内は、ホテルの一室のようだった。ベッドはもちろん、書斎デスクや大型の壁掛けテレビ、冷蔵庫も置かれている。応接セットのソファには、パジャマ姿の男性がちょこんと座っていて、こちらを向いていた。
「おお、君たち。よう来てくれたな」
と言って、その男は右手をあげた。いつもと違うパジャマ姿のせいか、ボスが弱々しく見える。
「検査入院とお聞きしましたけど、お体は大丈夫なんですか?」
七海が心配そうな声でたずねながら、ボスと向かい合うソファに腰を下ろした。優斗もその隣に座る。
「ちょっと体調崩しただけやのに、念のために検査入院しろと言われてな。昨日から来ているんや」
彼の話では、前回1月に会って以来、仕事が急に忙しくなって、2人と会う時間も、病院で検査する時間もとれなかったらしい。その説明はもっともらしく聞こえた。
時間を惜しむように、ボスは早々に本題に入った。
「とにかく、学ぶのを止めたらあかん。この前の続きの話をしよか。七海さんはたしか、日本の抱える借金にわだかまりがあったんやな」
「そうです。借金の話でした。日本政府は1,200兆円の借金を抱えていますから、1人当たり1,000万円を負担することになります」
巨額の借金があることは知っていたが、1人当たりの金額を聞いて、優斗にも実感が湧いてきた。
「1人1,000万円もあるの!? それ、うちの兄ちゃんの借金どころじゃないじゃん」
七海が不思議そうな顔を優斗に向ける。
「お兄さん、借金してるの? まだ、学生よね」
「大学行くのに奨学金で300万円借りるって言ってました。それでも相当悩んでいるのに、そんなに借金があるんですね。でも、僕らが返すわけじゃないんでしょ」
「家庭の借金」と「国の借金」
優斗の楽観的な推測を、ボスはあっさり否定した。
「そんなことないで。政府が困ったら、借金返済のために、僕らは税金を取られるかもしれへん。僕らは利益も責任も共有しているからな」
じわじわと優斗は腹が立ってきた。
「どうして、僕たちが昔の借金を返さないといけないんですか」
目の前に座るボスを責めてもしょうがないが、ボスのようにソファに腰を沈めてくつろぐ老人の姿が思い浮かんだ。彼らは、後先考えずに、自分たちの生活だけを考えて借金を積み上げてきた。そして、今ごろ、ほくそ笑んでいるのだろう。借金を返さずに何とか逃げ切ったと。
「自分たちはラクをしておいて、そのツケを将来に回すなんてずるくないですか」
優斗の不満を聞きながら、ボスは「よっこらせ」と立ち上がる。冷蔵庫からペットボトルの麦茶を取り出すと、2人の前に1本ずつ置いた。ボスも同じものを飲んでいた。
「そうか、ずるいと思うんか。それはどうしてなんや?」
いつものパターンだと優斗は思った。彼が当たり前の質問をするときは、間違いなくひっかけ問題だ。だけど、素直に自分の考えを伝えるしかない。
「だって、昔の人たちは税金払わないで、借金してラクをしたわけでしょ。そのせいで、借金を返すときに、僕らがたくさん働いて稼がないといけないんですよね」
期待どおりの答えだったのか、ボスはニヤリとした。
「ほお。その話は興味深いな。昔の人たちがラクをしたせいで、未来の人たちが働かされると言うんやな。せやけど、タイムマシンは存在せえへんで」
「なんで、急にタイムマシンの話になるんですか」
「未来の人をここに連れてきて働いてもらえるなら、僕らはラクをして生活できるやろう。せやけど、そんなことは不可能や」
ボスの話もわからなくもない。アフリカ支援の堂本のオフィスでの話(善意が迷惑に…「途上国・アフリカ」に服を寄付すると「発展のさまたげ」になるワケ)を思い出した。過去の蓄積の上に僕らは生活している。逆に未来の人のおかげで生活するなんてできやしない。そうなると借金とは何だろうか。優斗は混乱してきた。
「でも、僕の兄は300万円分働いて返済しないといけないんですよ。借金をしたら後から働いて返すじゃないですか」
「家庭の借金と国の借金には大きな違いがあるんや」
もったいぶったボスの言い方にもどかしさを感じたが、いつもと変わらない様子に少し安心した。きっと検査入院の結果も問題ないだろうと優斗は思っていた。
内側と外側で働く人々
ボスはまず、質問から始めた。
「2つの借金の違いは、誰が働いているかを考えれば、わかることや。お兄さんは、奨学金で借りたお金を使って、誰に働いてもらうんや?」
「それは、大学の先生とか職員の人たちですよね……」
とりあえず優斗は答えたものの、ボスの質問の意図がまるでわからない。いつものことではあるのだが。
「大学の先生に働いてもらったから、いつかは自分が働いて借金を返済せんとあかん。そのとおりやな。ほな、政府が借金して道路を造ったら、働いているのは誰やろか?」
「それは、道路を建設する人でしょ。だけど、それも同じじゃないですか。働いてもらっているんだから、いつかは働いてお金を返さなきゃいけないわけだし」
その回答に、ボスは笑顔のまま黙り込んだ。考え直せという意味だ。
優斗が頭をひねって考えていると、壁際に置かれた大きな花瓶にふと目がとまった。花瓶の中で、大振りのガーベラが何本も頭を垂れていた。昨日入院したばかりなのにこんなにしおれるのだろうか。
それ以上考えることは、七海の発言によって中断された。
「その違いというのは、内側と外側の違いでしょうか」
ボスの眉がぴくりと動く。
「それはどういう意味やろか?」
「家庭の借金の場合は、家庭の外側の人にお金を払って働いてもらいます。ですが、国が借金をして道路を造る場合は、国の内側にいる人が働いています。つまり、自分たちで働いていますよね」
七海の回答に、ボスが満足そうな表情で応じる。
「よう気づいたな。サクマドルと同じ話や。20サクマドルを支払って、佐久間家の大掃除をするとしよか。お父さんが税金を集めるかわりに借金をしても、結局のところ、兄弟の誰かが必ず大掃除をする。ラクできるわけやないんや」
そこまで言われて優斗もようやく理解できた。頭の中で固まっていた老人のイメージが突如として崩れていく。彼らは決してなまけていたのではない。
自分たちが一生懸命働くことで、欲しいものを手に入れてきたのだ。
しかし、まだ疑問が残る。このパズルを解くには、まだ見つかっていないピースが存在していた。
「働かないでサボっていたんじゃないのはわかりましたよ。でも、その莫大な借金はどうやって返すんですか?」
「心配あらへん。返そうと思えば、働かんでも返すことができる」
ボスの少しくぼんだ目は、確信に満ちていた。
田内 学
お金の向こう研究所
代表