「おかしくないか」元副総理が異論 阪神・淡路の復興計画 開発官僚は強調、震災前のビジョン活用を

戦後日本の国土計画をリードした下河辺淳氏。阪神・淡路復興委員長の頃=1995年7月、東京都

 1995年2月。阪神・淡路大震災の激震による瓦礫(がれき)が散乱する中、兵庫県公館で有識者による都市再生戦略策定懇話会が開催された。委員の一人に名を連ねたのが当時東京海上研究所理事長の下河辺(しもこうべ)淳だ。

 「後藤新平は関東大震災後に大風呂敷と言われる一大復興計画を発表したが、地震の後に復興を考えたのではない。以前から世界の首都、帝都にしたいという思いでずっと考えて実現できずにいた。そこへ大地震。新帝都の建設を復興というラベルに置き換えた」

 出席の五百旗頭真(いおきべまこと)(当時神大教授)がその説得力ある語り口を再現している。「災い転じて福となすという不屈の魂だ。見るところ兵庫県、神戸市の計画以上のことを考えている人は少ない。今の計画を復興というラベルに置き換えて存分になさったらいい」(「下河辺アーカイヴス」)

 下河辺は元国土事務次官。一貫して国土開発の指針づくりに携わり、62年の全国総合開発計画(一全総)から98年の五全総まですべての全総の策定をリードした。「ミスター全総」と呼ばれた開発官僚は、震災を機に全く新しい発想の復興計画を創造するのではなく、既存のビジョンを活用する方針を示した。

 懇話会の後、2月15日に設置された政府の阪神・淡路復興委員会で下河辺は委員長に任命される。7人の委員、2人の特別顧問で14回の会議と2回のヒアリングが重ねられた。住宅、瓦礫処理、インフラ整備、健康・医療・福祉、神戸港、産業復興、雇用確保…。下河辺がまとめた長期ビジョンは上海・長江交易促進▽ヘルスケアパーク▽新産業構造形成▽阪神・淡路大震災記念プロジェクト-の四つの特定事業に結実する。だが「創造的復興」をけん引するはずだった戦略的なプロジェクトは景気停滞の中で失速していく。

 当時、下河辺が極秘で12回にわたり応じた政治学者の御厨(みくりや)貴(現東大名誉教授)らによるオーラルヒストリー(口述記録)などによると下河辺は委員会の前に特別顧問の後藤田正晴(元副総理)を訪ね、復興計画の打ち合わせをしていた。

 信頼関係にある下河辺と後藤田。下河辺は震災前のビジョンの復興計画への活用を強調し、後藤田は終始厳しい態度で臨む。「神戸の復興事業はどうしても開発の手法。おかしくないか」。路線は敷かれていた。(敬称略) (特別編集委員・加藤正文)

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