『デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション 前章』浅野いにお作品をアニメ化すること

『デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション 前章』あらすじ

東京でハイテンション女子高生ライフを送る、小山門出こやま・かどでと“おんたん”こと中川凰蘭なかがわ・おうらん。学校や受験勉強に追われつつも毎晩オンラインゲームで盛り上がる2人が暮らす街の上空には、3年前の8月31日、突如宇宙から出現し未曽有の事態を引き起こした巨大な〈母艦〉が浮かんでいた。非日常が日常に溶け込んでしまったある夜、仲良しクラスメイトに悲劇が起こる。衝撃と哀しみに打ちのめされる二人。そんな中、凰蘭は不思議な少年に出会い「君は誰?」と問いかけられる。その途端、凰蘭の脳裏に、すっかり忘れていた門出との過去が一瞬にして蘇る――!

リアルな風景に線画のキャラクター


漫画家・浅野いにおは、デジタルカメラで撮った膨大な風景の写真を線画に起こし、大量にストックしているのだという。それらを自身の漫画作品の背景として選定し用いることで、実写的なアプローチによるリアリスティックな作品世界の構築を実現している。

いまやペンタブや画像編集ソフトを駆使し、デジタルで作画する漫画家、イラストレーターは多いが、浅野いにおが、その手法を自分のものにしていった2000年代前半はまだ主流とはいえず、新しい技術をとり入れる漫画家たちは試行錯誤しながら、それぞれの個性に合わせたかたちで自作に活かしていったのだ。

『デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション 前章』©浅野いにお/小学館/DeDeDeDe Committee

浅野いにおの場合、デジタル技術の導入によって変質していった作家性は、画面の密度へと向かっていった。渋谷駅前の雑踏。物で溢れ散らかった室内。高所から見た住宅地やビル群……。写真家が現実のごく一部を“切り取る”ことによって、そこに思想やテーマを見出しているように、彼にとっての背景、風景の描写は、それ自体が際立った自己表現であり、現実の人間の日々の営みへのまなざしや、都市論や社会論への広がりを感じさせる。

一方で、そんなフリーハンドの魅力とは異なるリアリスティックな世界のなかに、浅野いにおは、往々にして漫画らしい線画のキャラクターを載せていく。それは、自身が培っていく漫画表現への、一種の反動でもあるのだろう。トレースされた詳細な背景とポンチ絵のようなキャラクターが混在する「おやすみプンプン」は、そんなアンビヴァレンスが顕著に出た例であるとともに、動画と背景でテイストが異なる、典型的な日本のアニメにも似た試みでもあるといえよう。

浅野いにお、集大成の一つ


そんな彼の作家性の一つの集大成といえるのが、2014年から2022年まで、8年近くもの長期連載が続けられ、完結に至った漫画「デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション」(通称デデデデ)だ。この度それが、『デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション 前章』(24)として劇場アニメ化され、公開が始まった。全12巻のシリーズが2作に分けられて製作されるという企画で、『後章』は2024年5月に追って公開予定だ。

物語の中心となるのは、東京に住む女子高校生で、親友同士である小山門出(こやま・かどで)と、“おんたん”こと中川凰蘭(なかがわ・おうらん)。毎晩のようにオンラインゲームに興じ、ネットスラングを使って会話するなど、趣味に興じるハイテンションなオタク少女たちだ。

『デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション 前章』©浅野いにお/小学館/DeDeDeDe Committee

ダラダラとした日常が続いているかに見える、門出とおんたんの日々だったが、彼女たちが生きる東京では、とんでもない事態が継続して進行していた。3年前の8月31日、都内上空に正体不明の巨大な母艦が現れ、現在に至るまで空中で静止を続けているのだ。ときおり不思議な異音を発するなど、奇妙な動きは見られるものの、積極的に人類を攻撃しようとする様子は確認できず、市民生活にとって“ただちに影響があるわけではない”。

さらなる有事を恐れる人々は東京を脱しているのだが、危険と生活を天秤にかけて、悠長に東京に残っている人々も依然として多いという状況。危機が迫っていても平常心を保とうとする心理を「正常性バイアス」などと呼ぶが、まさしく、ここでの東京で暮らす人々は集団的にその傾向を示しているように感じられる部分がある。

女子高校生たちが中心の物語とはいいながら、本作のストーリーでは、そんな東京において、さまざまな個性を持つ友達や教師、自衛隊や研究者など、謎の母艦に注視し、何らかの行動を起こす一部の者、とくに何もしない者たちの日々も群像的に描かれていく。

マクロからミクロまで


2014年にスタートした原作漫画の、この奇妙な設定の核となるのが、2011年に起こった東日本大震災や原発事故を受けての反応であることに異論を持つ者は少ないだろう。現在の日本を生きる作者の実感や、世界観、社会観、さまざまな情報を描くことによって、総体として掘り出そうとする試みが、この物語でありヴィジュアルなのだと考えられるのである。

身の回りを取り巻くカルチャー、災害の犠牲者、自身の存在への不安、未来に見出したい希望、逆に悲観的な見通しなど、ここでのマクロからミクロまでを描写しようとする姿勢は、ある種の文学的なアプローチだともいえるだろう。溢れるような情報の洪水を、デジタル機器によって享受することで、逆に多くのものに実感が持てない時代……。戦争や環境問題、飢餓、民族間の問題などを遠くに感じる一方で、じつは身近にも同様の問題が山積しており、自らの命が危険にさらされるような状況によって、現実の感覚や身体感覚が両極に引き裂かれる。そんな経験が、門出やおんたんの日常を襲う。

1980年代の村上龍の「コインロッカー・ベイビーズ」、1990年代の「新世紀エヴァンゲリオン」、2010年代初頭の「輪るピングドラム」など、自己の存在の問題と社会の大きな動きを結びつけながら、時代の閉塞感を痛みとともに打破していきたいという破壊衝動と、小さなスケールでの自己肯定や、ささやかな幸せを希求する価値観などを、創作というかたちによって、表現者たちは時代とともに語ってきた。

『デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション 前章』©浅野いにお/小学館/DeDeDeDe Committee

同様に、『デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション』もまた、浅野いにおなりの、表現者としての時代や大きな出来事との個人的な折り合いのつけ方であり、社会に対する一つの姿勢の表明でもあるのだろう。あくまで二人の少女の物語として本作を観ると、外側の設定や物語が散漫に思えてくるが、このような作品としてこういった、漫画やアニメーションによる、時代を捉えようとする一種の文学表現としての内容を味わっていくことで、さまざまな視点が存在することに納得ができるのではないだろうか。

そう考えれば、音楽ユニット「YOASOBI」のメンバー、幾田りら、元アイドルのアーティストである、あの という、若い世代からの絶大な人気を誇る二人に、主人公となる少女たちの役をあてているのは、まさに“時代”の印象を作品に刻みつける意図があるからだと考えられる。彼女たちのイメージを乗せることで、アニメ業界の外側から、社会、カルチャーを包括して本作を語ることを促しているようでもある。

脚本家・吉田玲子の手腕


原作漫画と本作が大きく異なるのは、全体のなかの後半で明らかになっていくはずの、核心に近づいていく過去の物語が、『前章』に配置されているところだ。これは、全12集を2作の映画に分けたときに、最も効果的に感じられる構成を狙ったというところだろう。この方向性は、原作者も参加したという脚本会議にて決定した可能性があるが、どちらにせよ成立までの過程で脚本家・吉田玲子の手腕が存分に発揮されているのは間違いないはずだ。

近年は漫画原作を持つアニメーション作品の脚本において、原作の展開から大きく逸脱するような仕事が少なくなってきている。そのなかで脚本家が、原作のテーマを汲み取りながら異なるフォーマットに合わせた内容をかたちづくろうとすれば、原作のエピソードをどう構成するか、作中の要素をどう利用してアニメーションとして観客の心を揺さぶるかという点が重要になってくる。その意味でいうと、まさに吉田玲子は適任といえるだろう。

過去に、吉田玲子脚本を絵コンテに起こしたアニメ演出家に取材をしたことがあるが、吉田の仕事は、原作通りに見える表現からでも、一つひとつの描写に明確な意味を感じられるのだという。それはおそらく、作品の本質的な部分を理解した上で、テーマを共有しながら取捨選択をおこなうことができていると理解することができる。ましてや、本作のような入り組んだ内容では、それこそが必要になってくる能力であるはずだ。

『デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション 前章』©浅野いにお/小学館/DeDeDeDe Committee

筆者は、原作者・浅野いにお、幾田りら、あの が登壇する完成披露試写会に参加したが、コンセプト会議から脚本会議、配役会議、アフレコ、曲にまで関わったと話す、ステージ上の浅野いにおは、かなり驚くような発言をしていた。作中の細かなシーンを確認しながら、100〜200カットものリテイクを出し、浅野自身もレタッチや、一からの作画作業を担当した箇所すらあるというのだ。このように原作者が、ほとんど監督の領分に踏み込んでいる制作の現場というのは、なかなか類を見ないのではないか。

映画自体は立派な完成作として誇れるものになっていたと感じられるが、公開1か月を控えた時点で、まだまだ修正作業が残されていて、本公開時に差し替えると語っていたというのは、原作者のこだわりの大きさを実感させられるものだ。後章公開が、当初の予定の4月から5月へと変更されたというのも、おそらくは浅野いにおのリテイクが膨大だったことが大きな要因になっていると想像される。

漫画をアニメ化するために


本作の制作を手がけたプロダクション・プラスエイチは、もともと「電脳コイル」の磯光雄監督によるアニメシリーズ「地球外少年少女」を制作するために立ち上げられた、新興のスタジオだ。本作では、だからこそ原作者の声を柔軟に受け入れる余地があったと考えられる。原作者と映像作品の製作者たちとの関係が問題になっているなかで、原作者の要望がここまで通ったことは、原作者の意図が無視される傾向にあるとして、それを問題だと考える人々にとっては一つの快挙だといえる。

ただ一方で、アニメ業界にはアニメ業界ならではの制作の流れや、限られた時間とコストのなかで成立させるための力配分やノウハウもある。修正作業の労力の大きさが、漫画作品の比ではないことも確かだ。その上で、原作者の声をどこまで聞くのかはスタジオの判断となってくるが、この事例が普通になっていけば、原作を持つ作品の制作自体が難しいものとなってしまうだろうことは留意しておきたい。

『デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション 前章』©浅野いにお/小学館/DeDeDeDe Committee

とはいえ、本作が原作漫画の雰囲気を、そのままに近いと感じさせるほど再現しているのは確かであり、動きのあるアニメーション作品となったことで、ラストシーンの衝撃的な演出が、より生々しいものとして心に残るというのも、確かなところである。後章では、より心をかきむしられるような展開、大いなる破壊衝動の発露となる表現が待っている。さらには、浅野いにお自身が劇場版用に自ら描き下ろしたというラストシーンも、初めて披露されることになるという。

漫画『デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション』の連載が終了してのち、日本、そして世界では、陰惨な出来事がさらに起こっている。現実の脅威を婉曲的に表現された作品世界において、本作のなかで何が更新されるのか。そして、『前章』、『後章』の2作は、総体としてどんなメッセージやテーマが含まれているのか。それは、『デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション 後章』の公開時に、あらためて考えてみたいと思う。

文:小野寺系

映画仙人を目指し、さすらいながらWEBメディアや雑誌などで執筆する映画評論家。いろいろな角度から、映画の“深い”内容を分かりやすく伝えていきます。

Twitter:@kmovie

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『デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション 前章』

3/22(金)より全国ロードショー中

配給:ギャガ

©浅野いにお/小学館/DeDeDeDe Committee

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