朝鮮戦争、講和会議、安保条約...怒涛の1950年代前半、日本はどのように動いていた?【歴史】

(※写真はイメージです/PIXTA)

1950年に勃発した朝鮮戦争は、日本国内の政治にも大きな影響をおよぼしました。また、翌年1951年のサンフランシスコ平和条約への調印は、現在の領土問題に深く関わっています。有名予備校講師で『大人の教養 面白いほどわかる日本史』(KADOKAWA)著者の山中裕典氏が、1950年代の日本の外交と、それに伴う国内の動向について解説します。

サンフランシスコ講和と独立(1950年代前半)

朝鮮戦争と日本の独立

1950年に始まった朝鮮戦争は、「冷戦」が「熱戦」になった事態と言えます。

北朝鮮が南北統一をめざして北緯38度線を越え韓国を占領すると、国連安保理がソ連欠席のまま北朝鮮への武力制裁を決定し、それに応じてアメリカ軍が国連軍として参戦し、押し返しました。ところが、アメリカ軍が北緯38度線を超えて北朝鮮を占領すると、中華人民共和国が人民義勇軍を参戦させて北朝鮮を支援し、北緯38度線まで戦線を戻し、最終的に板門店で休戦協定が調印されました(1953)。そして現在も休戦状態が続き、平和条約は締結されず、戦争はまだ終わっていないのです。

[図表1]朝鮮戦争 出所:『大人の教養 面白いほどわかる日本史』(KADOKAWA)より抜粋

朝鮮戦争が日本に与えた影響

GHQに朝鮮戦争への対応を迫られた〔第3次吉田茂内閣〕は、レッド・パージ(共産主義者の公職追放)を進めました。さらに、日本占領軍が朝鮮半島へ出動した軍事的空白を埋める目的で警察予備隊(1950)を創設し、再軍備を開始しました。また、公職追放が解除されて戦前の議会政治家が政界へ復帰し、GHQの支援で反共の日本労働組合総評議会(総評)も結成されました。

アメリカは国際戦略上の日本の重要性を認識し、米軍の日本駐留継続のため、早期講和による日本の独立と「西側」への編入を画策しました。そして、吉田は日本の防衛負担が軽減されれば経済復興へ集中できると考え、「西側」との単独講和を進めました。一方、「東側」を含む全交戦国との全面講和論も展開されました(社会党は全面講和論の左派と単独講和容認の右派に分裂)。

サンフランシスコ平和条約の規定内容

サンフランシスコ講和会議(1951)には中国(中華人民共和国中華民国台湾])は最初から会議に招待されませんでした(のち日本は「西側」の中華民国[台湾]と日華平和条約を結んだ)。そして、サンフランシスコ平和条約が調印され(1951.9発効は1952.4)、日本は独立を達成しました。しかし、ソ連や一部の東欧諸国は会議に参加したものの条約調印を拒否しました。

日本は朝鮮の独立を承認し、台湾澎湖諸島(日清戦争で獲得)を放棄し、南樺太(日露戦争で獲得)・千島列島を放棄しました。のち、日本政府は「北方領土」を平和条約で放棄した千島列島には含まれない日本固有の領土として、領有権を主張しました。また、南西諸島小笠原諸島信託統治(国際連合の依頼)になるよう、アメリカが国際連合へ提案するとされました。しかし、提案は行われず、アメリカの直接施政が継続しました(奄美諸島は独立直後に返還)。

[図表2]サンフランシスコ平和条約の規定と「北方領土」(略地図) 出所:『大人の教養 面白いほどわかる日本史』(KADOKAWA)より抜粋

平和条約には、占領軍撤退と、「協定」による外国軍駐留の容認が規定され、日米安全保障条約安保条約)(1951.9)が結ばれました。片務的な内容で、「極東の平和と安全」のためアメリカは日本のどこにでも米軍の配備を要求できる権利を持ち、またアメリカの日本防衛義務を規定しませんでした。

安保条約に基づき、細目を規定した日米行政協定が結ばれました(1952)。基地提供や駐留費用分担に加え、米軍の実質的な治外法権も認めました。

日米安保体制と「逆コース」~日本独立後の国内状況とは?

〔第3~5次吉田茂内閣〕は、非軍事化・民主化に逆行する政策を進めました(「逆コース」)。デモ隊が皇居前広場に突入して警官隊と衝突した血のメーデー事件を機に破壊活動防止法(破防法)が制定されました。アメリカの再軍備要求が強まり、警察予備隊の改組で保安隊(1952)が発足し、アメリカの援助と引きかえに防衛力増強義務を負うMSA協定が結ばれると、自衛隊(1954)が発足して防衛庁が設置されました。

これに対し、革新勢力(社会党・共産党・総評)は批判を強め、石川県の内灘事件や東京都の砂川事件などの米軍基地反対闘争が高揚しました。また、アメリカの水爆実験でマグロ漁船第五福竜丸が被爆すると(1954)、翌年に第1回原水爆禁止世界大会が広島で開かれ、原水爆禁止運動が全国へ広がりました。一方、「平和利用」がうたわれて原子力基本法が制定され、茨城県東海村に原子力研究所が設立され、1960年代には原子力発電所が稼働し始めました。

山中 裕典

河合塾/東進ハイスクール・東進衛星予備校

講師

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