【独占】坂元達裕の這い上がり力「苦境越え海外挑戦へ」インタビュー前編

コヴェントリー・シティ MF坂元達裕 写真:Troy Grant Media

2024年2月時点でイングランド1部のプレミアリーグに在籍する日本人選手は、日本代表でも活躍しているFW三笘薫(ブライトン・アンド・ホーブ・アルビオン)、DF冨安健洋(アーセナル)、MF遠藤航(リバプール)、そして1月30日にベルギー1部のシント=トロイデンVVからルートン・タウンに移籍したDF橋岡大樹の4人のみ。世界中のトップ選手が憧れるプレミアリーグは、まさに狭き門。そんな難関に、イングランド2部リーグからの昇格を目指し挑んでいる日本人選手がMF坂元達裕だ。

坂元は前橋育英高校と東洋大学を経て、2019年にJ2のモンテディオ山形でプロデビュー。2020年にJ1のセレッソ大阪へ移籍すると、2022年にベルギー1部のKCオーステンデに期限付き移籍。その後、完全移籍を経て2023年7月に英2部チャンピオンシップのコヴェントリー・シティへ移籍した。坂元の大車輪の活躍もあり、コヴェントリーはプレミア昇格の1枠をかけたプレーオフ進出に大きく近づいている。

これまで、年代別の代表経験もない一介の大卒Jリーガーだった坂元が、いかにして日本代表に選出され、イングランドの地で活躍するまでに成長できたのか。この独占インタビュー前編では、ユース年代からプロ入りまでのサッカー人生について振り返る。


コヴェントリー・シティ MF坂元達裕 写真:Troy Grant Media

苦しかったFC東京アカデミー時代

東京都東村山市出身の坂元は、中学時代にFC東京のアカデミーに所属。しかしここでは出場機会を得ることができず、ユースに昇格することができなかった。この時の経験について坂元は「苦しい思い出が多い」と振り返る。

坂元:僕、その時はとにかく体が小さくて当たり負けちゃう。中学は大きくなる人はどんどん大きくなりますしフィジカルで当たり負けちゃうことが多かったんですけど、当時はフォワードをやっていてとにかく全部裏に走ってボールを受けるタイプの選手だったので今とは結構プレイスタイルも違い、そういうタイミングで(ボールをもらう)っていうのは中学の時で学んだかなとは思いますね。ただ試合になかなか出れてなかったんで、苦しんだ思い出が多いです。

(試合に出られなかったのは)シンプルに身体がちっちゃかったのが一番大きいかなって僕は思っていますね。小学生の時ドリブルばっかりしてたんで技術はあったと思うんですけど、やっぱりスピードの部分だったり力負けしちゃうことは多かった。でもそれはしょうがないかなと今思うと感じますね。

その挫折の経験から得られたことはありますか?

坂元:プロになるまで挫折してばっかりだったんで、そういうところでもめげずに折れずに続ける力っていうのは身についたかなとは思ってます。

中学を卒業した坂元は、群馬県を代表するサッカーの名門校である前橋育英高校に進学する。同じ世代には、現在浦和レッズに所属するMF小泉佳穂、MF渡邊凌磨、GK吉田舜、北海道コンサドーレ札幌のDF岡村大八などが在籍し、多くのJリーガーが輩出された学年である。

前橋育英高校に進学したきっかけは?

坂元:(FC東京の)ユースには上がれないと言われて、高校のセレクションとか練習参加などいくつかさせてもらってて。西武台高校に行こうと決める寸前にFC東京の監督から前橋育英高校の練習に参加しないかって言ってもらえました。(東京アカデミーの同期だった)小泉佳穂ともう1人キーパーの選手と3人で練習に参加しました。すごくレベルが高いなと感じて、合格をもらって決めました。

小泉佳穂選手や渡邊凌磨選手など、同じ学年から多くのプロ選手が輩出されていますね。

坂元:そうですね。6人くらいはJ1でやっている選手がいますね。他にもJ2とかでやっている選手もいますけど、当時は高校を卒業してからプロになった選手はいなくて、みんな大学を通して這い上がってきたのはすごく珍しいと思いますね。同期がたくさんいる中で、プロ入りを目指して切磋琢磨できたのはとても大きかったと思います。

今振り返ると、とにかく負けず嫌いな選手が僕の代はとても多くて。小泉佳穂や渡邊凌磨とかは絶対負けたくないっていう選手で、練習中は削りあったり喧嘩したりっていうのがしょっちゅうでした。周りの選手もそういう人がたくさんいて強度がすごく高くて質の高いピリピリした練習ができていたんで、今振り返ると苦しい時期を過ごしても這い上がってくる力っていうのは、みんな身につけたと思います。

(坂元が得意とする)切り返しも小泉佳穂を真似て始めたのがきっかけです。佳穂がすごくキックフェイントがうまくて、そこから僕も真似してやり始めて…って感じですね。


コヴェントリー・シティ MF坂元達裕 写真:Troy Grant Media

スポーツ推薦枠外という屈辱

3年次には高校サッカー選手権で準優勝をおさめた坂元だが、プロからのオファーはなく、関東リーグに所属する東洋大学への進学を決意。しかしスポーツ推薦としてではなく、一般の指定校推薦での入学となった。

坂元:最初は青山学院大学に行きたいと思っていて。大学を選び始めたのがインターハイや選手権の前なんですが、僕が活躍し始めたのが高校3年生の選手権頃で。それよりも前に大学選びをしているのは「ちょっとプロも厳しいかな」と思い始めている時で、やっぱり勉強もできてサッカーもある程度強いという勝手なイメージで青山学院大学に行きたいなって思ってたんですけど、結局それが(小泉)佳穂になっちゃって。

監督から「ここはどうだ」って言われて練習に参加することが多くて、僕は東洋大学を勧められて練習に参加したんですけど、その時は取ってもらえなかったんです。人数が既に満員で「指定校推薦なら入れるよ」ぐらいの…。

基本、東洋大学ではスポーツ推薦で全員入学するんですけど、枠がないんで(一般の)指定校で来るなら入ってもいいよという形で入りましたね。だから僕は(サッカー部内で)指定校は一人だけで、学部も違ったんで色々大変でした。授業とか他のチームメイトと全然違って場所も違ったんでひとりでしたね。

スポーツ推薦ではない入部は悔しかったですか?

坂元:基本的に欲しい選手はみんなスポーツ推薦で取るので(指定校推薦での入部は)本当あんまり(欲しい選手ではない)と言ったらアレですけど…。もちろん悔しかったですね。僕も高校を卒業してプロになれるとはその時は思ってなかったですし、とりあえず東洋大学はサッカーが強い大学っていうのは知っていたんで、入部の形は他の人とは違ったかもしれませんけど、何とか這いあがろうという気持ちでした。

ー大学4年生の時には10番を背負って全日本大学サッカー選手権大会(インカレ)に出場されました。4年間でそこまで成長できた理由は何ですか?

坂元:やっぱり苦しい時間を大学でも過ごしましたし、挫折というか、試合に出られない時はもちろんありました。なかなか結果が出ない時もありましたけど、僕自身こういう苦しい時間を乗り越えてひとつレベルアップできると思っているんで。そういう意味では大学4年生の時は苦しい思いをたくさんしました。10番を背負って中心としてやっていかなきゃいけない中で、あまり目立った活躍ができずに、怪我とかもあったりして。それでも何とかインカレ出場まで導くことはできました。

どうやって苦しい時間を乗り越えましたか?

坂元:メンタリティっていうのは、前橋育英の頃からずっと鍛えられたと思います。僕自身メンタル的にあまり強くない方なんです。弱々しいというか、結構メンタル的に下がっちゃう方なんですけど、サッカーでは本当に負けたくない気持ちがそれ以上に大きくて。前橋育英でもそういうメンタリティを学びましたし、苦しい時もへこたれない力というのはそこから来ているんじゃないかと思います。

コヴェントリー・シティ MF坂元達裕 写真:Troy Grant Media

就活かサッカーか、進路選択の重圧

大学でサッカーをしている学生なら誰もが通る道かもしれないが、4年生になった坂元は就職するかサッカーを続けるかの選択を迫られ、大きなプレッシャーを感じることになる。

大学4年次は就職活動を始めるかどうかを決める大事な時期だと思いますが。

坂元:就活するかで迷いましたよ。大学4年生のときに関東選抜っていうのがあって、そこに入ったら就活はやめてサッカー選手を目指そうと決めて、特に結果を残せてないんですけど一応関東選抜に入れたんで、とりあえず就活はせずにプロを目指そうっていう形でやってましたね。

ただ、そのときは皆(プロに)なれるかなれないかの瀬戸際でピリピリしてましたし、僕自身引っ掛からなかったら結局就活を遅くからしなきゃいけなかったのでドキドキでしたね。色々苦しかった時期でした。大学4年生はみんなそうだと思います。

辛かったことはありますか?

坂元:僕は結局プロとして(モンテディオ)山形に呼んでもらったのが7月くらいだったので、わりかし早かったんですよ。焦り始めた頃に取ってもらったんで、まだアレでしたけど。大学4年の時はプロを目指す選手は本当メンタル的になかなか経験しない重圧を受けながらプレーしたり、日々過ごすことになっていると思います。

僕自身、プロを目指している一番大事な時期にちょっと怪我をして試合に出られなくなってとかもあって、監督に相談しに行ったりもしてました。すごく苦しいというか、メンタル的に追い込まれていた印象が強いです。

それでは、プロチームからオファーがあればどこでも行くぞという気持ちで?

坂元:もうJ2でもJ3でも、とりあえずプロになれれば這い上がっていける自信はあったんですけど。そこに辿り着くまでが一番大変っていうのは自分でも分かっていたので、とにかく色んなところに練習参加させてもらって、どこでもいいからJ2に行けたら万々歳かな、という気持ちでした。


MF坂元達裕(モンテディオ山形所属時)写真:Getty Images

夢のプロ入りへ、山形から待望のオファー

2019年、東洋大学を卒業した坂元はJ2のモンテディオ山形に入団。デビュー年で42試合出場7得点とルーキーとして異例の好成績を残した。

モンテディオ山形に入団した経緯は?

坂元:当時の大学の監督の古川(毅)さんという方が、山形でプロとしてプレーしてた選手でした。左ウイングバックしか空いてなかったんで、そこでもいいなら練習参加に来ていいよっていう風に言ってもらって。結果、割と良くて取ってもらった感じです。

山形ではルーキーながら42試合出場7得点の活躍を見せました。

坂元:最初は左ウィングバックでの形で入ったんですが、練習していく中で前の方がやりやすいっていう風に監督にも感じてもらって、徐々にトップ下であったり[3-4-3]とかの3枚の右で使ってもらうようになって。キャンプが終わってから最初はベンチでしたが、2試合目からスタメンに使ってもらってまあまあ良くて、そこから続けて出させてもらうようになりました。

デビュー戦は覚えていますか?

坂元:もちろん覚えていますね、すごく緊張しましたけど。デビュー戦は全然良くなくて、途中出場だったんですけど負けちゃって。僕自身プレーも悪くて厳しいなって思ってたんですけど、2試合目からスタメンで使ってもらって良かったんで、その時の感情は忘れられないですね。手応えというか、雰囲気というか。やっぱり結果を出さないと終わっていく世界なんで、緊張してましたけど楽しめていた思い出はあります。

J2を実際に体験したときの感想は?

坂元:できるなっていう思いは強かったですね。もちろん大学とはプレースピードも強度も全然違いますし、ずば抜けた外国籍選手とかもたくさんいるので、難しい部分はたくさんありました。

山形での生活はどうでしたか?

坂元:とても良かったですね。ちょっと安く住める寮みたいなところに入らせてもらって、同期と隣同士で住んでいたんですけど、すごく楽しかったです。ご飯も山形はおいしいですし、サポーターの人たちも本当にとても温かいですし、大好きですね。

独占インタビュー前編では坂元のプロ入りまでを振り返った。後編では、セレッソ大阪への移籍から先輩MF清武弘嗣との出会い、海外移籍、27歳の現在から見据えるプロとしての夢について語っている。

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