パチンコで学費稼ぎ、ミルクボーイとの出会い…空気階段・鈴木もぐらを生んだ「芸術大学」での日々

鈴木もぐら 撮影/山田智絵

2012年に相方の水川かたまりとともにコンビ『空気階段』を結成、「キングオブコント2021」の王者となった鈴木もぐら。精力的にコントライブを行うだけでなく、最近では個性派俳優としても活躍中だ。そんな彼の心にある「THE CHANGE」とはーー。【第1回/全2回】

2021年に『キング・オブ・コント』(TBS系)王者になってからの1年は、瞬間最大風速はとんでもなく、おかげさまでたくさんの仕事をいただくことができました。今も、ライフワークの単独ライブを定期的に開催できたりと、ありがたい限りです。

僕は千葉県旭市出身で、幼少期から大抵のお笑い番組は見てきました。一人っ子でしたし親もずっと働いていたので、家で一人テレビを見るぐらいしか娯楽がなかったからです。

母親が2回結婚と離婚をしたので、名字が何回も変わりました。最初の父親が『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』(日本テレビ系)が大好きで、当時、5〜6歳の僕も一緒に見ていましたね。あとは『スーパージョッキー』(日本テレビ系)や『ウッチャンナンチャンのやるならやらねば!』(フジテレビ系)、『とんねるずの生でダラダラいかせて!!』(日本テレビ系)に『とんねるずのみなさんのおかげです』(フジテレビ系)、『ボキャブラ天国』(フジテレビ系)……枚挙にいとまがありません。

中学校では、卓球部に入りました。当時から太ってはいたのですが、意外と上手くて町のチャンピオンだったんです(笑)。

中学2年生のときに、一つ下の学年だった福原愛さんと対戦したこともありました。軽々とプレーする彼女相手に、1点も取れずに敗北。そこで大きな壁を感じて卓球部をやめました。僕は「愛ちゃんに遊ばれた男」です(笑)。

その後、一浪して大阪芸術大学へと進学します。大学に行きたかった理由は、早く地元を出たかったから。海しかない町で、風景も代わり映えせず、閉塞感を覚えていた記憶があります。ストレスが溜まったら、空き地で月に向かってひたすら卓球の素振りなどをして紛らわせていました(笑)。

お笑い芸人を目指した理由は「面白い先輩たち」

まずは入学金と授業料を稼がなければいけないと、時給の高いパチンコ店でバイトを始めました。当時はパチンコなんて子どもだまし、なんて思っていたのですが、バイトの先輩から「一度打ってみれば分かる」と言われ、実際に他店で打ったところ、一瞬にして何万円も勝ったんです。これで学費を稼いでやろうとパチンコを極めていきました。

おかげで晴れて大学に入学。大阪芸大を目指したのは、プロモーションビデオやCM、ドキュメンタリーなど映像に興味があったのがきっかけでした。

ところが入学した後に、法律が変わって“パチンコ規制”が始まります。出玉が制限されたことで、どうしても勝てなくなり、2年目の授業料を払うことができずに中退を余儀なくされました。

でも、短い大学生活のうちに出会ったのが、今も活躍されている『ミルクボーイ』さんや『ななまがり』さん。落語研究会の先輩だったんです。当時からその2組は吉本のオーディションを受けに行っていて、かつ、めちゃくちゃ面白かった。

僕がお笑い芸人になろうと思ったのは、先輩たちに触発されたからです。この出会いがなければ、今も夜の世界にいたかもしれません……というのも、大学を除籍になった後、僕は高収入バイトを探して風俗店で働いていたのです。

ペットボトルに入っているローションを専用の容器に詰め替える仕事をしていたのですが、今でも職人のような速さで詰められるようになりました。特に披露する場所がない特技ですけどね(笑)。

その後、その店がつぶれたのですが、店の偉い人から「安心しろ、お前の行く場所は決まっているから」と、指示された場所へ行くと、そこは別の風俗店の事務所で、受付をすることになりました。今考えたら身売りみたいなもんですよね(笑)。

でもこの経験があったからこそ、「最悪、お笑いで食えなくなったら、夜の業界に戻ればいい」と、楽観視できるようになりました。

鈴木もぐら(すずきもぐら)
1987年5月13日生まれ。2012年にコンビ『空気階段』を結成。16年に『マイナビLaughter Night』(TBSラジオ)の第3回チャンピオンライブで優勝し、冠特番を獲得。この放送が好評を博して17年4月に『空気階段の踊り場』としてレギュラー化した。同大会では2連覇を達成している。『キングオブコント2021』王者。吉本興業所属。

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