松島トモ子さん「理不尽なこと、辛いことも視点を変えれば喜びや楽しみが見つかります」

幼少期から芸能界で活躍してきた松島トモ子さん。その裏には人知れぬ苦労や壮絶な体験がありました。それでも笑顔を失わず、周囲を明るく照らし続ける。悲しいことや辛いことがあっても、「何とか面白く考えられないかしら」と考えを巡らせる。その発想こそが幸せへの近道かもしれません。

お話を伺ったのは
女優、歌手 松島トモ子さん

まつしま・ともこ●1945年、旧満州生まれ。
3歳から習っていたバレエをきっかけに、50年『獅子の罠』で映画デビュー。名子役として、『鞍馬天狗』など約80本の映画に主演する。以降も舞台やテレビ、講演などで幅広く活躍。
近著に『老老介護の幸せ 母と娘の最後の旅路』。
オフィシャルブログ「ライオンの餌」https://ameblo.jp/matsushima-tomoko

4歳でデビューして一躍、子役スターに

「私の芸能人としてのピークは5~15歳の10年間でした」

そう言って、ウフフと笑う松島トモ子さん。デビューしたのは4歳のとき。以降、数多くの映画で主役を務め、10年にわたって少女雑誌の表紙を飾るなど華々しい活躍を見せた。

「当時は敗戦の重い空気がまだまだ残っていた時代。私は子どもだったけれど、『少しでも皆さんに元気になってもらいたい』と一生懸命でした。友達からもよく言われますし自覚もありますが、私、わがままなんですね。でも、仕事に対しては真面目で一生懸命。それは、子どもの頃から『人を楽しませたい』という思いが根底にあるから。それが私の流儀です」

4歳で芸能界デビュー
3歳のとき、日比谷公会堂でバレエを踊ったのが初舞台。その後、阪東妻三郎さんの目に留まり、4歳で映画デビューを果たした。「下積みもなく、最初からスターになっちゃいました」

仕事は引きも切らず、順風満帆な芸能生活。しかし、19歳のとき、松島さんは新たな道へと人生の舵を切る。ニューヨークにあるザ・マスターズスクールに留学したのだ。

「それまでずっと仕事に勉強に、走り続けてきました。でも、どこかで疲れちゃっていたのかもしれません。このまま家と仕事場と学校だけの人生でいいのかしら? このまま日本にいる限り、仕事がきたらやってしまうだろう……だったら一度、仕事を離れてアメリカに行こう! そう決めたんです」

ニューヨークでは寄宿舎生活。松島さんに突きつけられたのは、日本とはあまりにも違う現実だった。

「日本にいるときは人が集まってしまうから、遠足にも修学旅行にも行けない。『松島トモ子って、なんて不便なんだろう』と思っていました。それが自分ひとりだけでのアメリカ暮らし。誰も助けに来てくれないし、全部自分でしなくちゃいけません。でも私、雨が降ってきたらどうしたらいいかすらわからなかったの。以前は雨が降るとどこからか傘が出てきていたので(笑)。『ああ、自分で傘を差さなければいけないんだ』と初めて気づいたわけです。留学してよかったと思うのは、自分が今までいかにおかしな生活を送っていたかわかったことですね」

人気絶頂期にアメリカに留学
19歳でザ・マスターズスクールに留学。「初めての独り立ちで、自分が何もできないことを思い知らされました。ボタンが取れたらホチキスでつけたりして、よくみんなに笑われていました」

猛獣に襲われても諦めずに仕事を遂行

留学を終えて帰国してからは、その語学力を生かして英語での司会やインタビュー、海外レポーターなどを務め、活躍の場を広げた。

「今はコーディネーターさんや通訳さんがつきますが、当時はコーディネーターも通訳もすべて私ひとりでやっていて、入国の書類を通したりするのも得意でした。日本ではダラダラしているくせに、英語になると人格が変わったかのようにシャッキリするんです(笑)。父も祖父も商社マンでしたから、どこかでそうした血を引いているのかもしれませんね」

1986年1月、事件は起こった。テレビ番組の収録で訪れたケニアのナイロビで、松島さんはライオンに襲われたのだ。

「『野生のエルザ』で知られる、ジョイ・アダムソンの夫のジョージ・アダムソンの日常を撮るという企画で、私はインタビュアーとして現地に行きました。ジョージと出会ったその日、ジョージが一瞬目を離した瞬間に、ライオンに頭をかまれてしまったんです」

出血も痛みもひどい。普通ならここで仕事は諦め、日本に戻るだろう。しかし松島さんは現場に戻った。

「だってそのとき、私はまだ1テイクも撮っていなかったんですもの。『私は何のためにケニアに来たの? ライオンにかまれに来ただけ?』と思ったし、今どきの表現ではないけれど、『このまま帰ったら女がすたる』というような気持ちで撮影を続けました。たしかに出血などはひどかったけれど、命に関わるものではないと自分で判断したんです。まさかその後に “ヒョウの部” が待っているとは思ってもいなかったけれど(笑)」

ナイロビの病院で手当てを受けた松島さんは、またもや撮影現場に戻った。ギプス姿で痛み止めの薬を飲みながら、死をも覚悟して……。そして何とかインタビューを終え、満身創痍で日本に帰国。

「ナイロビの病院の見立てがいい加減だったものですから、日本の病院で診てもらって初めて第4頸椎粉砕骨折とわかりました。お医者さまからは『あと1ミリずれていたら、全身麻痺になるか、死んでいたかですよ』と言われたほどです」

この事故を経て、松島さんの人生観は180度変わったという。

「主治医に『私はあとどのくらいで仕事に復帰できますか?』と毎日のように聞いていましたが、『生きて帰ってこられただけでも幸せだと思ってください』と言われました。この先をどうやって生きていくのか、考える機会でもありました」

二度の猛獣襲撃事故
番組収録で訪れたケニアでライオンとヒョウに立て続けに襲われ、瀕死の重傷を負った。
「日本に帰国した翌日、病院に入院し絶対安静の身に。自分ではそれほどひどいとは思っていなかったけれど、医師からは『生きているのが奇跡』と言われました」

私は “ライオンの餌” ではありません(笑)

松島さんは2020年8月からブログを始めた。その名も「ライオンの餌」! まるで猛獣襲撃事件を笑い飛ばすかのような、このタイトルの由来は永六輔さんの言葉。

「永さんのコンサートにゲスト出演したとき、永さんが『今日のスペシャルゲストは “ライオンの餌”!』とおっしゃったんです。舞台袖でスタンバイしていた私は『えぇ~!?』とびっくりしましたが、『松島トモ子!』と呼ばれたら、お客さまにドーッとウケた。私は仕方なく出ていきましたが、ウケたもので永さんが気に入っちゃって(笑)、しばらくはそんなふうに紹介されていました」

コンサートで共演したり、演出を担ってもらったり。交流は永さんが亡くなるまで60年以上続いた。

「私がものを書いたり、人前でしゃべったりできるようになったのは、永さんが身をもって教えてくださったからだと思っています」

永さん以外にも、松島さんには忘れられない思い出がある。それは、作家の宇野千代さんとの出会い。

「宇野先生からは『トモ子、プライドはとっても大事なものよ。だからプライドは絶対に捨てちゃいけません。だけど、あなたのそのプライド、少しずらしなさい』と言われました。若いときはその言葉の意味がわかりませんでしたが、今になってみると、プライドを少しずらすと光が見えるのだとわかります。ありがたいお言葉をいただきました」

介護生活の中にもささやかな喜びはある

松島さんを陰になりひなたになり支え、二人三脚で人生を歩んできたのが母・志奈枝さん。“一卵性親子”と呼ばれるほど、常に一緒だった。そんな最愛の母に異変が。95歳の誕生日祝いの食事会で失禁。そこからはつるべ落としのようにどんどん悪化し、罵詈雑言を吐く、花瓶を投げる、夜中に家から逃げ出す……。

「“親バカ”ならぬ “娘バカ” と言われるかもしれませんが、母は95歳までレディで美しくて、『こんなお年寄りなら私もなってもいいわ』と思っていたくらい。いつもハイヒールを履いて、スポーツタイプの車を運転して、とにかく颯爽としていました。そんな母が目の前で壊れていくのを見るのが、本当に辛かった……」

2016年、志奈枝さんはレビー小体型認知症との診断を受けた。友人からは、「トモ子は家事ができないから、施設で暮らしたほうがお母さまも幸せよ」とすすめられたが、志奈枝さんは施設入居を断固拒否。過酷な在宅介護が始まった。

「母は戦後、旧満州の奉天から日本へ命からがら私を連れ帰ってくれました。その母が私と離れたくないと言うのですから、自宅で介護しようと覚悟を決めました。とはいえ、介護はきれいごとではすまされません。『やっぱり施設に……』と、毎日のように心が揺れ動きました」

介護生活は約5年半続いた。そして2021年10月、志奈枝さんは100歳で永遠の眠りについた。

「亡くなる前の晩、母は目をパッチリ開けて、眠ろうとしないんです。『ママ、どこか痛い? 苦しい?』と聞くと、頭を振る。『怖い?』と聞いたら、『うん』とうなずきました。私が介護用ベッドに潜り込むと、母がしがみついてくるので、一晩中抱き締めていました。温もりを感じていましたが、次に気づいたときはもう冷たくなっていて……。母を喪ったことはとても悲しいけれど、最期まで自宅で看ることができて本当によかったと思っています」

一卵性親子と呼ばれた母を在宅介護
凛として美しく、尊敬していた母・志奈枝さんが95歳でレビー小体型認知症に。松島さんは自宅で介護を行い、2021年10月に見送った。
「認知症のせいで凶暴になった時期もありましたが、最期は以前のようなレディ然とした母でした。自宅で看取れてよかったと思います」

困難を何とかして喜びに変える

70年以上に及ぶ芸能生活、さまざまな苦難、そして自宅での老老介護。松島さんの人生を支え、笑顔を咲かせてくれたのは、幼い頃に母から贈られた一冊の本だった。

「アメリカの作家、エレナ・ホグマン・ポーターの作品で、村岡花子さんが翻訳した『少女パレアナ』。パレアナは孤児で、慰問袋の中にお人形が入っていることを願っていました。でも、出てきたのは松葉杖。パレアナは『どうやったらこの松葉杖で喜べるだろう』と考えます。『どんなことの中にも喜びを見つけなければいけない』という遊びを始めたんですね。私も小さい頃からパレアナのように “喜びの遊び” を実践してきました。

芸能生活ではうれしいことがたくさんあった半面、理不尽な目に遭ったり、辛い思いをしたことも。そういうときは『これを何とかして喜びに変えよう!』って。ヒョウにかまれて大ケガをしたときも、この遊びを思い出して『あのヒョウの毛皮をちょうだい。コートにしたいから』なんて言いましたね。全然ウケませんでしたけれど(笑)。母の介護のときも、そんなふうにして喜びや楽しみを見つけ出し、口角を上げるようにしました。“喜びの遊び” から指針を得て、前向きに歩いてきたように思います」

※この記事は「ゆうゆう」2022年1月号(主婦の友社)の内容をWEB掲載のために再編集しています。


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