「息子がこんなことになるなんて…」幼い息子を放置し5日間も山へ行った「夫の趣味」が許せない妻のとった行動とは

<前編のあらすじ>

瞳(36歳)には3歳になる息子の直太朗がいる。夫の智樹(38歳)は学生時代から登山が好きで、瞳の妊娠中や子どもが小さい今でも泊りがけで山登りに行ってしまうことが不満だった。

智樹が北海道のトムラウシ山へ出かけている最中に、直太朗は原因不明の高熱を出して救急車で運ばれてしまう。何度電話をかけてもつながらない智樹への怒りはつのるばかりだった……。

膨れあがる夫への怒り

「原因はまだ不明ですが、点滴と解熱剤を投与しますから大丈夫ですよ。深刻な病気の可能性はほとんどないので、安心してください」

医師の言葉を聞いた瞳は、安心してその場にへたり込みそうになった。安心した途端、どっと疲れが湧いてきた。診察台に横たわっている直太朗は目を小さく開け、そんな瞳を見つめていた。高熱にうなされ、ふぅふぅと苦しそうに息を吐いている。

直太朗は病院の処置室に運ばれ、そこで点滴と解熱剤を投与された。点滴の注射は小さな子どもにとってはつらいはずだが、泣いたりもせずに頑張ってくれた。

点滴と解熱剤の効果はてきめんだった。2時間ほどたつと、直太朗の熱はすっかり下がっていた。

「熱も下がったし、お家でゆっくり休みましょうか」

優しそうな看護師が瞳をいたわるように言葉をかけてくれた。

日が暮れる頃、瞳は直太朗を抱っこして病院をあとにした。直太朗の熱が下がったのと比例するかのように、瞳の怒りは膨れ上がっていた。もちろん、夫に対する怒りだった。直太朗が熱を出してから何度も電話をかけているのに、全く返事がない。病院に向かう前にも電話をかけたし、病院の待合室でも何度も電話をかけた。

しかし、返ってくるのは「おかけになった電話は、電波の届かない場所にあるか、電源が入っていないため、かかりません」という無機質なメッセージだけだった。

今頃、きっとテントの中でのんびり食事でもしているのだろう。

『山で食べるご飯がいちばんおいしいんだよね』

かつて夫が口にしていた言葉が不意によみがえり、それが瞳の怒りをさらに燃え上がらせた。

「ママ、すごく怖い顔してる」

家に帰ると、直太朗が心配そうな表情を浮かべていた。もしかして、熱を出した自分が怒られると思っているのかもしれない。子どもを不安な気持ちにさせてしまったのはまずかった。

「あれ? ママ怖い顔してる? ぜんぜん怒ってないから大丈夫だよ」

自分の中の怒りをなだめ、無理やり笑顔を作ってみせた。しかし、その笑顔はきっとぎこちないものだろうと自分でも分かった。

息子と登山のどっちが大事なの?

2日後、トムラウシ山から降りてきた夫から折り返しの電話があった。

「何度も電話があったけど、どうしたの?」

「どうしたのじゃないでしょ!」

夫ののんきそうな声を聞いた瞬間、瞳の怒りが爆発した。こんな大声を出したのはいつぶりだろうか。結婚してからは一度もなかった気がする。

「あなたが山に行ってるあいだ、直太朗が高熱出して大変だったんだから! 私、ひとりで直太朗を連れて病院行ったんだよ。40度以上の熱が出て、直太朗が死んじゃうかと思ったんだから! 心細くて何度も電話したのに、あなたぜんぜん電話でなかったじゃない!」

「ごめん、山の中にいたから電波が届かなかったんだと思う……」

「そんなこと知るわけないじゃん! ていうかさ、3歳の子どもがいるのに5日間も登山で家空けるとか意味分からないんだけど! 私は『山に行ってもいい』とは言ったけど、無制限でどこにでも行っていいなんて言ってないよね?」

「ちょ、ちょっと待って。そんなに大声出さないでよ」

「大声ぐらい出すでしょ! あなた、留守中に直太朗が死んだらどうするつもりだったの! 直太朗と登山、どっちが大事なの!」

瞳のけんまくに圧倒され、夫は黙り込んでしまった。夫は弁が立つ方で、瞳はやり込められてしまうことが多いのだが、今回だけは違った。瞳が本気で怒っているということが夫にもしっかりと伝わっているようだった。

固い決意

夫が帰宅してから、今後のことについていろいろと話し合った。瞳は、直太朗が高熱を出したときどんなに不安だったかを丁寧に夫に伝えた。夫は瞳の話を遮ることなく聞いてくれた。いつになく真剣な表情を浮かべている。

「平日は仕事で家にいなくて、休日は登山で家にいないお父さんって、直太朗にとってどんな存在なの? それって、もうお父さんじゃなくない?」

ずっと心にたまっていた気持ちを吐き出した。子どもが欲しいと強く主張したのは自分だ。

これまで、子育てについて夫になにか言いたくなっても「子どもが欲しいと言ったのは自分だし……」と遠慮してしまっていた。

しかし、自分は直太朗の母親なのだ。直太朗の幸せのために夫に文句を言うのは、母親の義務ではないだろうか。これまで、自分はその義務をしっかりと果たしてこなかった。直太朗のためにも、これ以上夫に遠慮するわけにはいかない。

そんな決意が夫にも伝わったようだった。何も言わず、じっと瞳の話を聞いている。腕を組み、何かを考えているようだった。

そういえば「子どもが欲しい」と相談したときも今みたいに腕を組んでいたっけ。

リビングの隅には、今回の登山で夫が使った大きなザックが置いてある。かなりハードな登山だったらしく、汚れが目立った。

腕を組んでいる夫は天井を見上げ、大きく息を吐いた。そして、まるで自分に言い聞かせるように2、3度静かにうなずいた。

「分かった。もう山には行かないよ」

夫はそう言った。学生時代からずっと続けていた趣味をやめると宣言したのだった。

「瞳が登山を許してくれてたことに甘えすぎてたね。瞳がちょっと愚痴を言えば『話が違うじゃん』って言い返してたけど、ちょっと大人げなかった。家族につらい思いをさせながら山に登っても面白くないし、登山はきっぱりやめるよ」

弁の立つ夫だが、守れない約束を軽はずみにするようなタイプではない。それが分かっているからこそ、瞳は夫の決意に驚いた。

夫が、登山ではなく直太朗と自分を選んでくれたことが本当にうれしかった。

しかし「ありがとう」と言う気にはなれなかった。

ここでお礼を言ってしまっては、負けたような気がする。直太朗のためにも、ここは厳しい妻でいようと決めた。

「分かった」

瞳は静かにそう言った。怒りと喜びと固い決意が入り交じる中、他に言葉が見つからなかったのだった。

サッカーボール

登山をやめると決断した夫は、持っていた登山道具を全て売り払った。登山靴、ストック(登山用のつえ)、手袋、ザックなどが家の中から消えた。

週末になると、夫はザックを背負って山にいく代わりに、サッカーボールを持って直太朗と近所の公園に行くようになった。最近、直太朗はボールを上手に蹴れるようになったらしい。

サッカーボールは、登山道具を売ったお金で夫が直太朗に買ってくれたものだった。

夫には厳しくあろうと思っていた瞳だったが、登山道具を売ったときの夫の顔があまりにも寂しそうで、なんだか自分が悪いことをしたような気持ちになってしまった。

登山道具を売ったお金で直太朗のためにサッカーボールを買ったのは、きっと夫なりの息子にたいする罪滅ぼしなのだろう。

直太朗が夫と一緒に公園で楽しそうにサッカー遊びをしてくれるのが救いだった。

最大の趣味を断念した夫が落ち込んだりしないか心配だったが、それは杞憂(きゆう)のようだった。夫は意外と子育てを楽しんでくれているようだ。

玄関のドアが開く音がした。夫と直太朗が公園から戻ってきたのだった。

「ただいまー」

4歳になったばかりの息子の元気な声が家中に響き渡る。渡った。

その声を聞いた時、瞳は『直太朗が大きくなったら、夫と一緒に山に登ってくれたらいいな』と思ったのだった。

※複数の事例から着想を得たフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。

大嶋 恵那/ライター

2014年立命館大学大学院経営管理研究科修了。 大手人材会社などで法人営業に従事したのち、株式会社STSデジタルでライター業に従事。 現在は求人系、医療系、アウトドア系、ライフスタイル系の記事を中心に執筆活動を続けている

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