小説=流氓=薄倖移民の痛恨歌=矢嶋健介 著=115

 矢野は八重子の手から火のついた線香を受け取り《中津家先祖代々の墓》と記した菱形の自然石の前に立って、合掌した。複雑な気持ちが胸に込み上げてきて、矢野はその場にしゃがんだまま、暫く立ち上がることができなかった。そこが日本なのか、ブラジルであるのか、境界のはっきりしない世界に迷い込んだような混沌とした意識の中にいた。どこかで梟の鳴く声が聞こえ、墓碑の傍らの笹の葉が風にざわざわと音を立てた。

〈了〉

 

(一)

 

 五時半を告げる目覚し時計が鳴った。娘の和子の部屋からであるが、眼を覚ますのは私の方だ。しかし、起こすと機嫌を損ねるのでそのままにしておく。

 今年、大学の予備校に通っているので、朝七時から夜の九時まで学校に缶詰めである。その点、多少同情したり励ましたりするが、当の娘はちっとも気にしていない。遅く起きてもいつもの癖で、鏡の前に腰掛け、化粧クリームを顔面にすり込み、瞼に青い墨を塗り、二重瞼に見せかけるためのテープまで貼り付ける。化粧時間はたっぷりとって、コーヒーを淹れる時間はない。

「パパイ、遅くなっちゃった。学校まで自動車でウン・プリンニョ(ひとっ走り)してよ」

(またか!)と私は内心で苦虫を噛む。

「車は飾り物じゃないでしょ。ウーザ・パラ・イッソ・メズモ(そのために使うべきものよ)」

 ポルトガル語と日本語をチャンポンに遣い、自分で車の鍵をもって車庫に急いで入る。運転したいのだがまだ十七歳で免許証が取れない。が、車庫から車を表へ廻すことはできる。屋外は霧が立ち込めている。私は渋々と車に入る。発車寸前になって、

「あ、ちょっと待って。月謝を払う日だ。お金をもってくる」

 和子は家に駆け込んで行き、今度は財布を片手に自動車に駆け込む。長い頭髪を後方に振り上げ、ミニ・スカートから丸出しの膝を故意に合わせながら、

「O・K。七時までに学校へつけてよ」

(これが、現代っ子というものだろうか。自分の思うがままに振る舞って、他人迷惑など、意に介さない。実に勝手なものだ。しかし時には、亡妻にもこういう所作があったから、親譲りかもしれぬ)私は、またも苦虫を噛んでハンドルを操る。

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