おとぎ話に出てくるような、世界の美しいお城。みなさんが一度は訪れてみたいお城はどこでしょう。ラブロマンスが背景に伝わるお城を、洋の東西とわず歴史が大好きという鷹橋 忍さんにひも解いていただきましょう。第3回はイギリスのバッキンガム宮殿です。
★マリエンブルク城★
ラブロマンスが背景にある世界のお城をご紹介するこのシリーズ。
第3回は、イギリスのバッキンガム宮殿を舞台に、大英帝国最盛期に君臨したヴィクトリア女王(1819~1901/在位1837~1901)と、彼女の夫・アルバート(1819~1861)のラブストーリーをご紹介したいと思います。
バッキンガム宮殿の名の由来は?
英国王室の公式ウェブサイトによれば、バッキンガム宮殿は、英国君主のロンドンの公邸であり、現在は君主の行政本部で、王室行事や儀式がおこなわれています。
ヴィクトリア女王とアルバートのロマンスの前に、バッキンガム宮殿の歴史に、簡単に触れておきましょう。
今、バッキンガム宮殿が建つ土地は、イングランド王のジェームズ1世(1566~1625/在位1603~1625)が、王室御用の蚕を養殖するために造った桑園だったといいます。
バッキンガム宮殿は最初から、王宮であったわけではありません。もともとは、1703年にバッキンガム公シェフィールド(1648~1721)の邸宅として、建てられました。
バッキンガム宮殿の名は、この公爵の名にちなむといいます。
1761年、ハノーファー朝第3代イギリス王・ジョージ3世(1738~1820/在位1760~1820)は、このバッキンガム邸を買い取り、王妃シャーロットにプレゼントしています。
ジョージ3世の子で、ハノーファー朝第4代イギリス王・ジョージ4世(1762~1830/在位1820~1830)は大改装を施し、ネオクラシック様式の宮殿としました。
ところが、ジョージ4世も、次に即位したハノーファー朝第5代のイギリス王ウィリアム4世(1765~1837/在位1830~1837/ジョージ4世の弟)も、宮殿で暮らすことはありませんでした。
バッキンガム宮殿が王室の公式な宮殿として使われるようになったのは、ジョージ3世の孫であるヴィクトリア女王の時代からです。
女王エリザベス2世の高祖母
ヴィクトリア女王は、2022年9月8日に崩御したイギリス女王エリザベス2世の高祖母にあたります。
ヴィクトリアは、1819年5月24日に、ロンドンのケンジントン宮殿で生まれました。
父親は、イギリス王ジョージ3世の四男であるケント公爵エドワード(1767~1820)。
母親は、ザクセン・コーブルク・ザールフェルト公家のヴィクトワールです。
父ケント公爵エドワードは、ヴィクトリアが誕生してから8カ月後の1820年1月23日に亡くなってしまいます。
ヴィクトリア女王は母親に、ケンジントン宮殿で育てられました。
女王ヴィクトリアの誕生
ヴィクトリアの伯父であるジョージ4世は一人娘に先立たれており、同じく伯父のウィリアム4世にも正式な結婚による子が生まれませんでした。
そのため、ヴィクトリアは王位継承者第一位となり、1837年6月20日、ウィリアム4世が崩御すると、18歳で王位を継承しました。ハノーヴァー王朝第六代君主ヴィクトリア女王の誕生です。
イギリスの王位継承は16世紀以来、長子相続が基本で、男子が優先されますが、女子にも継承権が認められているのです(君塚直隆『ヴィクトリア女王 ―大英帝国の"戦う女王"』)。
ヴィクトリアは同年7月に、バッキンガム宮殿に移りました。63年7カ月におよぶ、ヴィクトリアの長い治世のはじまりです。
アルバートへ自らプロポーズ
女王となったヴィクトリアがアルバートと結婚したのは、1840年2月10日、21歳のときのことです。
アルバートは、ドイツの領邦国の君主ザクセン=コーブルク=ゴータ公の次男です(ドイツ名アルブレヒト)。ヴィクトリアより、3カ月遅い1819年8月26日に生まれました。
アルバートの父親は、ヴィクトリアの母親の実兄なので、ヴィクトリアとアルバートは、「いとこ」にあたります。
ヴィクトリアは1836年に、父と兄とともにロンドンに来訪したアルバートに会っており、そのとき一目で彼に惹かれたようです。
ヴィクトリアは日誌に、「彼は大変な美男子で、大きなブルーの瞳と、美しい鼻と口と、綺麗な歯をもっている。しかも賢くて知的だ」と綴っています。
1839年10月、より魅力を増したアルバートが再びイギリスを訪れると、ヴィクトリアのほうからプロポーズしたといいます。
理想の家族像
ヴィクトリアが居を移したころのバッキンガム宮殿は、居住は可能でしたが、建築的にはまだ完成とは言い難いものでした。
そんなバッキンガム宮殿を、ヴィクトリアとアルバートは、国際的な宮廷へと発展させていきます。
ヴィクトリアとアルバートは、大変に仲の良い夫婦であったといわれ、四男五女の子宝にも恵まれています。
ヴィクトリアの妊娠出産時には、代理を務めるなど、アルバートは妻を献身的に支えました。
アルバートは有能で勤勉であり、当初は外国人であるが故に疎んじていたイギリスの政治家たちも、信頼を寄せるようになりました。
1851年にロンドンで開催された世界初の万国博覧会も、アルバートを総裁に企画・運営されたといいます。
二人の家庭生活は国民から敬愛され、子どもたちに囲まれて幸せそうな二人を描いた絵画は、たくさんの複製が作られ、「中流家庭の理想の家族像」として、多くの家に飾られたといいます(君塚直隆『イギリスの歴史』)。
アルバートの死
幸せな日々は永遠には続きませんでした。
アルバートが1861年12月14日に、42歳でこの世を去ってしまったからです。死因は腸チフスだったとされます。
ヴィクトリアは悲しみのあまり、ワイト島のオズボーン・ハウスやスコットランドのバルモラル城に閉じこもり、バッキンガム宮殿からもロンドンからも遠ざかってしまいました。
やがて、ヴィクトリアは復活し、女王としての職務に打ち込みますが、公式の催事ではときおり紫のドレスなどを纏うことはあっても、基本的には81歳の長寿をまっとうするまで、亡き夫への愛の証のように、喪服で通したといいます。