『厨房のありす』は“信じられる”ドラマだった 門脇麦の愛に溢れた“リアル”な演技

『厨房のありす』の放送が最終回を迎え、早くも「ありすロス」を嘆く声が相次いでいる。

毎週放送を楽しみにしていた、私自身もそうだ。しかし、改めて本作を振り返ってみると、不思議な作品だったと思う部分もある。それは本作が“ジャンル分け”ができないドラマだったからだ。友人や家族に布教しようにも、「門脇麦と永瀬廉が出てる……恋愛ドラマでサスペンスで、化学と料理が描かれたドラマ?」となかなか説明が難しいのである。ただし、一つのジャンルに言葉を縛ってしまうと、このドラマの良さが両手からこぼれ落ちかねない。

ただでさえ情報量の多い“料理もの”のドラマで、かつ主人公のありす(門脇麦)は化学が好きな自閉スペクトラム症(ASD)の女性。そのため、セリフ量も圧倒的に多い。さらに後半からは、サスペンスや恋愛につながる展開も加わる。こうして改めて書き連ねてみると、本作がいかに様々な要素のてんこ盛りであったかに気づく。

しかし、このドラマはありすが料理の世界で成り上がる話でもなければ、次々と難事件が起こるシリアスすぎるミステリーでもない。話がぶれたり、一つの要素が突出したりすることなく、絶妙なバランスでありすを取り巻く物事の変化を映し出している印象を受けた。では、そんな本作が一貫して描き続けてきたテーマとは何か。

それは、「信じられるものとは何か」なのである。最終話の「この25年間、私に向き合ってくれて、私と一緒に築いてきたものこそが、私にとって信じられるものなんです」と語るありすの姿は、視聴者の胸を打つ名シーンとなった。もちろんこのセリフがストレートにテーマに触れていることは言うまでもないが、最終話に至るまでに、ずっとありすにとっての「信じられるもの」は描かれ続けていた。

それこそが、物語の中心にあった、ありすの居場所とも言える店「ありすのお勝手」である。コミュニケーションが苦手なありすだったが、客の好みや状況に合わせて料理を作ることを通して、人との繋がりを知っていく。そして、どんなに大変なことがあっても、店は開かれる。五條製薬の事件の真相に日に日に近づいていく中で、「ありすのお勝手」はありすにとっても視聴者にとっても帰る場所であり、大切な人との賑やかな日常は変わらずに続いていくことを思わされた。

そして、「信じられるもの」というキーワードは、このドラマの評価にも直結している。本作のありすを、ASDと日々向き合いながら真っ直ぐに生きる女性として「信じられる存在」にしているのは、何といっても主演の門脇麦の演技だ。化学式を読み上げる特徴的な早口での長台詞や、ありすならではの細かい仕草の数々は、言うまでもなく視聴者の心に深く刻まれたに違いない。ありすの特徴については、「わかる!」「ついありすを応援したくなる」と、実際にASDの当事者からもブログやSNSで共感の声が上がっている。

こうした「特性」をエンタメ作品で扱うことは、場合によっては炎上のリスクも伴うが、本作のリアリティのある門脇麦の演技が多くの当事者の心をも動かしたのだろう。そして何より、愛を持ってありすの存在が描かれていることが、当事者だけでなく広く視聴者の心を掴む大きな理由となったように思う。

とはいえ、第1話時点で、ありすがこんなにも成長するとは誰が思っただろうか。それはもちろん、心優しい倖生(永瀬廉)や“お父さん”としてありすを真っ直ぐに愛し続けた心護(大森南朋)の存在があったから。第1話から最終話まで、「信じたい」と思わせてくれる人たちと積み上げた時間が、あの店には確かに存在している。それは、まるで具材から丁寧に仕込まれた一品のように、時間をかけて積み重ねられたものだ。

『厨房のありす』を観終えた今、「本作がどんなジャンルのドラマだったのか」を言葉にするのはもはや野暮なのかもしれない。それでもあえて言うとしたら、一つのジャンルに収まらない多様な要素が調和した、“料理のようなドラマ”という言葉に帰結するのだろう。
(文=すなくじら)

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