72歳YouTuberが語る…85歳「認知症の母」を10年間介護し続けた苦難と心あたたまるエピソード

(※写真はイメージです/PIXTA)

介護をおこなうのは大変で、思ったようにいかない日々が続いたり、神経をすり減らしてしまったりと、一筋縄ではいかず、先が見えない未来に不安になってしまうこともあるのではないでしょうか。さらに、認知症の母を介護するとなると、実の親子だからこそ複雑な感情がまじりあうことも多々あります。10年間、認知症の母を支え続けたロコリ氏の著書『72歳、好きな服で心が弾む、ひとり暮らし』(KADOKAWA)より、介護生活の苦難と、大変ななかにある心温まるエピソードを紹介します。

85歳までハツラツとしていた母は、生き方のお手本

新しもの好きで常に新しい環境に飛び込んでいく私の性格は、母ゆずりかもしれません。

母はモダンでとてもおしゃれな人で、身長162cmと当時の女性にしては背が高く、私から見ても美人でした。

行動力やチャレンジ精神も旺盛でした。まだ自家用車が一般的でなかった時代に、自動車の運転がしたくてしたくてたまらず、運転免許を取得。ですが、父のお給料では車は買えません。そこで母がどうしたかというと、「社長お抱えの運転手」の募集を見つけ、見事採用されたのです。

社用車の大きなクラウンを女性ドライバーが運転する姿は、当時かなりハイカラだったと思います。「交差点で車を停めると、みんなが振り返って見るのよ」と母が自慢していたのを思い出します。

母が71歳でカラオケの講師になったのも、びっくりするようないきさつでした。当時の私は40代半ば。私が結婚しないことを気にしていた母は、そのストレス解消のためか、友達とよくカラオケに行くようになりました。

そこで、もっとうまくなりたい!と思ったようで、偶然カラオケで一緒になった歌のうまい方に、「先生になって歌を教えてください」と頼み込んだのです。

その方は地元のデパートに主任として勤める男性でした。そのことを知った母は、「カラオケ教室を開いてください」とその男性の売り場に何度も何度もお願いに行きました。売り場では、「あのおばあちゃんまた来たよ」と有名になるくらいだったようです。その方はもともと趣味で歌っていたのですが、母のお願いがきっかけでカラオケ教室を始めることになり、今でもまだ活躍されているそうです。

そのうち、熱心に歌を練習した母自身も講師となり、近所の公民館などでカラオケ教室を開くまでになりました。

母が好きだったのは歌謡曲やシャンソン。発表会ではきれいな銀髪に貸し衣裳の華やかなドレスを着こなし、華がありました。71歳で自分の教室を始め、認知症を発症する85歳まで続けましたから、たいしたものだと思います。

残念ながら“美人”については遺伝しませんでしたが、母の行動力は、今も刺激になっています。

一筋縄ではいかない介護

80代になっても近所の公民館でカラオケの講師をし、毎年発表会を行っていた母。そんな母もさすがに体力が落ちてきたなと感じたのが85歳になったころでした。生徒さんのお月謝をいただいたとかいただいていないとかのちょっとしたトラブルもあり、そろそろ潮時だろうと、15年近く続けたカラオケ教室をやめることになりました。今思えば、このころから軽度の認知症の症状が出ていたのです。

最初にあれ?と思ったのは、買い物に行く度に、こんにゃくと歯間ブラシを買ってくるようになったことです。今までそんなことをしたことはありませんでした。

姉に頼んで病院に連れていってもらうと、やはり「始まっていますね」ということで、デイサービスを頼むことになりました。施設も検討しましたが、近くに手頃な空き施設がなく、また、見学に行った施設では認知症のお年寄りが大声でわめいていたりしたので、おしゃれで華やかだった母を入れるのは忍びないような気がして、みれるところまでは家でみよう、ということにしたのです。

だんだんと症状がひどくなると、週3日→4日→泊まり、と、デイサービスの日が増えていき、母の体調によっては私も仕事を休まざるを得なくなっていきました。

認知症の介護というのは、一筋縄ではいきません。毎日デイサービスに送り出すだけでも一苦労ですし、母が動けなくなったり、予想外の行動をすることに神経がすり減っていきました。

台所に立ちたがる母は、あるときは、ティファールの電気湯沸かし器をコンロにのせて火をつけようとしていました。そのティファールを水で丸洗いして壊してしまい、さらに電気釜も同じように水洗いして壊したので、使うとき以外は押し入れに隠しました。それに代わって魔法瓶の水筒を用意して、母の前に置いていました。

トイレに立ったはずがなかなか帰ってこないので心配になって見に行くと、洋式便器に片足をつっこんでいたこともあります。お風呂と勘違いしたのです。トイレがつまったので業者さんにみてもらうと、シャツが出てきたこともありました。

トイレといえば、お風呂で大便しようとしていたこともあります。そのときはびっくりして思わず、「やめてー!」と、悲鳴のように叫んでしまいました。ときすでに遅しでしたが。でも振り返ればお風呂の件はまだマシでした。

最後の方は、トイレに行きたくなると全裸になるようになり、トイレまで間に合わないので廊下でも部屋でも、ところかまわずもらしてしまうようになったのですから。そのためにお高めな使いやすい消毒液をまとめ買いしていたので、コロナ禍に入ったときでも困ることはありませんでした。

そしてついに家を抜け出して徘徊し、警察のお世話になったときは、ああ、もう限界だ、と思ったものです。このころには施設に申し込んでいましたが、順番待ちですぐには入れず、ひたすら耐える日々でした。

このころを思い返すと、もっと優しくしてあげればよかったと後悔する気持ちがあります。ただその当時は必死でしたし、実の親子だからこそ複雑な思いがあって、いい顔ばかりはできなかったなあと思います。

介護中の心あたたまるエピソード

それでも、ちょっと心あたたまる思い出も残っています。母の部屋のレースカーテンを優しいペールトーンの柄物にしたときの反応は、「ふーん」とそっけなかったのですが、縁側のカーテンを換えたときは驚くような反応を見せたのです。オレンジやピンクなど、きれいな色が好きだった母のために、子ども部屋のようなかわいらしいプリントのカーテンに換えたら目を輝かせて「あらーおしゃれね〜。ハイカラになったやん」とそれはそれは喜んでくれました。

ダイニングテーブルにIKEAのカラフルな布をかけたときも、母の好きなオレンジやグリーンが入っていたので、きれいきれいとハイテンションで喜んでいました。もともと華やかな色が好きで、ピンクやオレンジの服もなんの抵抗もなく着こなしていたので、認知症ではあっても美的センスには最後までこだわりがありました。

私が、お年寄りがはくニットジャージのようなズボンを「暖かくてはきやすそう」と思って買ってきても「こんなばあちゃんみたいなの」といって絶対にはかず、たっぷりとストレッチの入ったジーンズばかりはいていました。

母を連れて夏祭りに出かけた日のことはよく覚えています。

その日は私ももう料理を作るのもめんどうで、夏祭り会場に母を連れていき、やきとりでも買って夕食にしようと思っていました。ところが母は、断固として「行かん!」と、なだめてもすかしても動こうとしません。しまいには大げんかになり、母が「わかった。もうあんたのいう通りにする!」とベッドにあった本をバーンと投げつけ、やっといい争いが終わりました。

険悪な雰囲気でしたが、なんとか母を車椅子に乗せて会場に行くと、盆踊りが始まっていました。「ここで待っとってね」と車椅子を隅に寄せ、夜店に買い物に行こうとしてふと振り返ると、母が必死で車椅子から降りようとしています。周りの人が一生懸命手伝ってくれて車椅子を降りた母は、そのままトコトコと盆踊りの輪に入っていき、なんと、踊り始めました!

会場の雰囲気と、久しぶりにお友達と会ったことで急に元気が出たようでした。やっぱり音楽や踊りが好きだったんですね。

その後は機嫌よく、「今日は楽しかった」と帰ることができました。

こんな介護の日々は、丸10年続きました。

ロコリ

YouTuber

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